「少年A」この子を生んで……―悔恨の手記
「少年A」の父母 著 文藝春秋刊
発売日:1999年04月
愛していた。信じてもいた。その14歳の息子Aが、神戸連続児童殺傷事件の憎むべき犯人酒鬼薔薇聖斗だったとは。両親が2年間の沈黙を破り悔恨の涙とともに綴った息子Aとのすべて
息子Aをあのようにしてしまった不甲斐ない私達の、14年にわたるAとの暮らしと事件前後の私達のありのままを綴ることで、「真実を知りたい」という被害者のご家族の方々のお気持ちに多少なりともお答えすることができ、前向きな何かが生まれればという願いを込め、拙い文ではありますが、本書を書きました。(父親の言葉)
P7 神戸連続児童殺傷事件について---両親の手記を刊行するに当たって
P8〜
「さあ、ゲームの始まりです。愚鈍な警察諸君、ボクを止めてみたまえ。ボクは殺しが愉快でたまらない」---。
1997年5月27日、ナチスの鉤十字もどきのマークとともに記された「挑戦状」とともに、土師淳君の遺体の頭部が神戸市須磨区の友が丘中学の正門で発見され、日本中がその事件の異様さに衝撃を受けた。
そして6月、A少年は捜査の攪乱を狙って、大胆不敵な次なる「犯行声明文」を神戸新聞社に送りつける。
「透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。(中略)今となっても何故ボクが殺しが好きなのかはわからない。(中略)殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得ることができる」
「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った少年は、饒舌に自己を主張した。
それ以前にも1997年2月10日、通りすがりの小学生の女の子2人をショックハンマーで殴って(p9〜)怪我を負わせ、翌月の16日にも近所の小学生・山下彩花(あやか)さんをショックハンマーで殴り、殺害。同じ日に、もう1人の女児をナイフで刺すなど、連続通り魔事件を起こし、その凶行をノートに「人間の壊れやすさを確かめるための『聖なる実験』をしました」と書き記していた。
6月28日、A少年はついに兵庫県警に逮捕されるが、少年は警察、弁護士、精神鑑定医らを相手に、録音テープのように淡々と、その殺害状況を繰り返し繰り返し語った。「少年はは不気味なほど、落ち着いていた。少年との会話はまるで死んだ人間と話をしているように冷ややかな感触だった」(家裁関係者)
p10〜
A少年は、被害者のことを「僕が殺した死体であり、僕の作品」と呼び、その遺体を切り裂き、血を飲んだことを、「その理由は『僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められる』と思ったからでした」(検事調書より)と告白した。
被害者の遺体の頭部を校門に置いた時の心境を「その間、僕は学校の正門前に首が生えているというような『ちょっと不思議な映像だな』と思って見ていたのです。(中略)しばらくはこの不思議な映像は僕が作ったのだという満足感に浸りました」と澱みなく語っている。
「僕は2月10日に、何の理由もなく、またきっかけもない女の子ふたりのそれぞれの頭をショックハンマーで殴り付けたことから、僕は到底越えることが出来ないと思っていた一線を越えたのです。
越えることの出来ない一線とは、人の道ということです。
その道を踏み外したことから、僕にとって理性とか良心というものの大半をその時落してしまいました。
それからというもの、一旦人の道を踏み外したら、後は何をやっても構わないと思うようになり、人の死を理解して、僕のものにしたいという、僕の欲望を抑えることが出来なくなってしまいました」(検事調書より)
P11〜
少年は精神鑑定の結果、「年齢相応の知能を有し、意識も清明である。精神病ではなく、それを疑わせる症状もないのであって(中略)、成人の刑事事件にいう心神耗弱の状況にあったとまでは言えない」と判定された。
つまり少年は、正気のままで被害者を次々に惨殺したのである。
理由なき殺人----。
少年犯罪史上最も凶悪な犯行であり、その14歳の肖像はマスメディアというフィルターを通しモンスターと化し、日本中を震撼させた。
少年自身も、「懲役13年」という作文の中で、「かつて自分だったモノの鬼神のごとき『絶対零度の狂気』を感じさせるのである。とうてい、反論こそすれ抵抗などできようはずもない」と書き記している。
どうしたら、14歳の少年の心はここまで固く凍りつくのか?
彼は一体、何者なのか?
この少年は、親にどのように育てられ、ここまでに成長したのか?(略)
p12〜
A少年が東京・府中の関東医療少年院に送致された97年10月半ばより、私達は事件の答えを探すべく、両親に接触を図り、何度もインタビューをお願いしてきた。
しかし、その答えはいつも「否」だった。両親は「自分達に事件を語る資格がない」と言うのである。また、マスコミに対する極度の不信感と恐怖心にも由来しているようだった。事件後、A少年の2人の弟が転校した学校、その居住場所が、関係者の懸命な努力でマスコミに分からぬよう確保されていたにもかかわらず、インタビューでメディアが過熱すれば、再び弟達の学校生活が脅かされ、さらには善意から世話をしてくれている人々にも迷惑がかかることになる、という心配からだった。
p15〜
A少年の両親を語る上で、ある興味深いエピソードを、私達はこの間に得ている。
A少年の友が丘の自宅の斜め向かいの家の樋には、いつも石がたくさん詰まっていたそうである。これはA少年が、塀に上っている猫を目掛けて投げつけたものが、隣家の樋に溜まったものだった。
近所の人は皆、A少年の家から隣家へ石が飛ぶのを見ており、少年が投げたものであることにウスウス気付いていた。
しかし、当のA少年の母親は、そんなこととは露知らずに「お宅の樋に石が溜まっていますよ」と隣人に報せ、自宅の2階に案内し、そこから現場を見せて注意を促したという。
p16〜
まさか自分の息子のやったこととは気付かずに、親切心から…。
「私達は、事件について隠すことは何もありません。もう失う物もありません。嘘をつく必要がどこにあるでしょうか」
両親はこう語っている。本書は、「少年A事件」とA少年の14年(事件後を含めると16年)の軌跡を両親側から綴った、もう一つの『真実』である。(略)
最後になりましたが、この事件により尊い命を失われた土師淳君と山下彩花さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
(1999年3月)
p21 2章 息子が「酒鬼薔薇聖斗」だと知ったとき--母の手記
A少年は1997年6月28日の逮捕以来、両親に会うことを一貫して拒否していたため、神戸家裁で行われる第2回審判直前の9月中旬(中略)、両親は連絡なしに、息子が送致されている神戸少年鑑別所を訪れた。
これまで涙ひとつ見せず、県警捜査員、家裁調査官、精神鑑定人らを相手に、終始冷静沈着に証言していた少年が、この日両親の姿を見るや、泣き叫んで激昂し、ひどく取り乱した。「酒鬼薔薇聖斗」から15歳(この時点では)の少年に戻った一瞬だった。
p22〜
「帰れ、ブタ野郎」
1997年9月18日、私たち夫婦が6月28日の逮捕以来、初めて神戸少年鑑別所に収容された(p23〜)長男Aに面会に行ったとき、まず息子から浴びせられたのがこの言葉でした。
「誰が何と言おうと、Aはお父さんとお母さんの子供やから、家族5人で頑張って行こうな」
と、夫が声をかけたそのとき、私たち2人はこう怒鳴られたのです。
鉄格子の付いた重い鉄の扉の奥の、青のペンキが剥げかかって緑に変色したような壁に囲まれた、狭い正方形の面談室。並べてあったパイプ椅子に座り、テーブルを挟んでAと向かい合いました。あの子は最初、身じろぎもせずこちらに顔を向けたまま、ジーッと黙って椅子に腰掛けていました。
しかし、私たちが声をかけたとたん、
「帰れーっ」
「会わないと言ったのに、何で来やがったんや」
火が付いたように怒鳴り出しました。
そして、これまで一度として見せたこともない、すごい形相で私たちを睨みつけました。
〈あの子のあの目ーーー〉
涙をいっぱいに溜め、グーッと上目使いで、心底から私たちを憎んでいるという目ーーー。
あまりのショックと驚きで、私は一瞬、金縛りに遭ったように体が強張ってしまいました。
〈なんて顔をするんやろう〉
ギョロッと目を剥いた、人間じゃないような顔と言うのでしょうか。
P24〜
あのような怒りを露わにし、興奮した息子を見るのは、Aを生んでから初めてのことでした。
私は息子の目から自分の目を逸らさないで、顔をジーッとただ見詰めていたのですが、あの子の目からは結局、親である私たちを拒否し心底から憎んでいると思わせる、憎しみに満ちた怒りのようなものしか感じられませんでした。
こうして今振り返っても、やはりそうとしか受け取れません。
p25〜
私たち親は正直言って、この時点まで、息子があの恐ろしい事件を起こした犯人とは、とても考えられませんでした。どうしても納得することができませんでした。
あの子の口から真実を聞くまでは、信じられない。きっと何かの間違いに違いない。
いや、間違いであってほしい。たとえその確率が、0・1%、いえ0・01%でもいい。その可能性を信じたいという、藁にも縋る思いで、その日鑑別所の面談室を訪ねたのです。
p27〜
夫と2人で会った2日後、鑑別所の管理官から電話で連絡がありました。「Aがお母さんに会ってもいい」と言っているというので、私だけがもう一度、1人で神戸少年鑑別所を訪ねました。
前と同じ面談室で待っていたAは、前よりもいくぶん落ち着きを取り戻した様子でした。
「こないだは、あんなこと言うてゴメン。悪かった」
泣きながら、素直に謝ってきました。
あの子がボロボロと涙を流すので、私はまたハンカチを差出しました。
p47 3章 逮捕前後の息子Aと私達――父の日記と手記
A少年が6月28日の朝、捜査本部が置かれていた須磨署に連行されて以降、一家の生活は180度、暗転した。
逮捕当日の家宅捜索が終了した夜、一家は長年住んでいた友が丘の自宅を逃げるように去り、母子は二度と足を踏み入れることはなかった。親戚縁者の家を転々とし、両親そして2人の弟たちまでが、連日連夜、警察の厳しい事情聴取を受け、A少年の事件前後の行動、言動を詳しく聴かれる。執拗なまでのマスコミ攻勢からその姿を隠すため、両親は一時期、離婚。弟たちは姓名を変え、兵庫県から遠く離れたある都市に親と離れて暮らした。
A少年の父は事情聴取の際、自分があまりに息子のことを知らなすぎたことを痛感し、自戒の念を込めて、逮捕当日からその年8月末まで日記を書いた(淳君が行方不明になった当時のことも、思い出しながら、併せて書き記している)。
以下はそれらの抜粋である。
p49〜
●1997年6月28日(土曜日)ーー逮捕の日
朝7時15分頃、今日は子供達の学校も会社も休みで、家族全員その時はまだ眠っていました。
突然、インターホンが鳴り、私が寝間から起きて玄関のドアを開けると、警察の方が2人中に入ってきて、スッと警察手帳を見せられました。名前までは覚えていません。
「外では人目に付くので」と言った後、1人が玄関のドアを閉め、「息子さんに話を聞きたいのですが・・・」と言われました。
「はあ、ウチは息子は3人おりますが・・・」
「ご長男、A君です」(略)
p54〜
まさか淳君の事件にAが関わっているとは、正直言って想像もできませんでした。
「A君を容疑者として今、取り調べています」
そして、6時50分頃に2回目の「家宅捜索令状」を見せられました。
「・・・」
その時は、私の頭の中がパッと真っ白になってしまい、何回も「何でですか? Aが何をしたのですか?」と同じことばかりを尋ねるだけで、一体何がわが家で起こっているのかキチンと理解できませんでした。
p55〜
8時半頃、居間で付けっ放しになっていたテレビの画面の上のほうに、「淳君事件の犯人逮捕。友が丘の少年」という短いテロップが出ました。
「えっ、こ、これですか? これはAのことですか?」
捜索している警官に妻が尋ねると、「そうです」という短い返事が返ってきました。
何時間過ぎたのか分かりませんが、次第に警官の人数も14,5人に増え、家中が騒然とした雰囲気になり、〈ここが本当に自分の家なのか〉と私たち2人は呆然と立ち尽くしていました。(略)
2階のAの部屋の捜索に私と妻が立ち会い、警官から次々と見たこともないようなモノを見せられました。
p56〜
「お父さん、お母さん、これ」
と示されたモノを見たら、蓋もない日本酒のワンカップの空瓶の中に、干からびた何かがたくさん入っていました。
「何やろ? これは」
「猫の舌です」
「・・・」
捜査員は携帯電話で須磨署にいるAと連絡を取りながら、捜索をしているようでした。
「(Aの部屋の)天井を調べたいのですが」
「はあー」
私はこの時まで、Aの部屋の天井のその箇所に天井への出入り口があることも知らず、もちろん天井裏に上がったこともありませんでした。
私は動揺してしまい記憶はハッキリありませんが、捜査員は私たちに、ここにAが淳君の遺体の頭部を隠すために置いていた、と手短に説明したようでした。(略)
p75〜
●7月15日(火曜日)
午前6時15分、起きてテレビのニュースを見ると、今日にもAを連続通り魔事件で再逮捕する予定、と報じていました。
私たちは警察から供述調書作成のため質問はされますが、Aの犯行や供述について具体的なことは何も聞かされていませんでした。いつも後になってテレビ、新聞などの報道で知る、そのパターンの繰り返しでした。
p76〜
知らせると。私達が弁護士に喋ると思われていたのでしょうか。
自分たちが全く知らない息子のことを報道で知らされるというのは、やりきれない無力感に襲われ、辛いことでした。そして自分たちが供述したことも次々といつの間にか報道される。一体、誰が報道陣に喋っているのか。人間不信になりました。
p105〜
9月末になり、ようやく私たち夫婦はAに鑑別所で会うことができました。
Aが私たちを睨んだあの目を、私は一生忘れることができないでしょう。
どれだけAが自分を憎んでいるのか分からないけど、たぶん我々家族のしていたこと全てが憎かったのではないか、と思わざるを得ない目でした。(略)
私は神戸の少年鑑別所でAと会ったとき、Aが私たちを泣きながら怒鳴り散らすというあまりの豹変ぶりを目の当たりにし、
p106〜
〈やはり事件は自分の息子が犯人だった・・・〉
信じたくなく、認めたくはなかった事実でしたが、そう実感せざるを得ませんでした。(略)
審判中、Aは口を開けば、「早く終わってほしい」と言い、「僕を騙したあの警官は今、どうしているのですか」と反省する素振りは全く見せず、騙されたことに腹を立てていました。(編注=兵庫県警捜査員がA少年を連行したとき、犯行声明文の筆跡とA少年の筆跡の鑑定結果がまだ出ていなかったにもかかわらず、あたかもピッタリと一致したというように説明し、声明文とノートを見せて自供を迫り、A少年は観念して自供した経緯がある)
私たちの存在も終始、無視していました。
審判終了後、弁護士さんからAとの接見メモを読ませてもらい、ああAは私たちをうまく騙していたことも随分ある、と今更ながら悔しい思いをしました。
p122 4章 小学校までの息子A--母の育児日記と手記
p155〜
Aが小学校3年生のときのことです。兄弟3人が、三つ巴で取っ組み合いの喧嘩をしているところに帰ってきた夫が、長男のAに手を上げ、怒鳴りつけました。
するとAは、急に目を剥くというか変に虚ろな目になり、宙を指差して、
p156〜
「前の家(多分、北区の社宅のこと)の炊事場が見える、団地に帰りたい、帰りたい」
と、うわ言のように喋りました。その様子がとても普通ではなく、怯えたようにガタガタ震えだしました。
私は驚いて駆け寄り、
「A、大丈夫やから。お母さんが全部、ちゃんと守ったるから。大丈夫やからね」
と、震えているAを、しばらくじっと抱いていました。
すると、Aの震えも次第におさまりましたが、私も夫も、あまりに普段と違ったAの様子にただ驚くばかりでした。
私たちはそれ以後ずっと、そのときのAの異常な様子が気にかかって、なん度か話し合ったりしました。
「仕事の疲れもあり、叱り過ぎたのかな」
と夫は気にし、その後Aには叩く真似はしても、一度も手は上げなかったと思います。
それでも心配だった私たちは、同居していた私の母に相談し、母の知り合いに病院を紹介してもらって、大阪のある病院の神経内科に、私がAを連れて行きました。
「お母さん、これは構い過ぎですよ。なるべく本人を放っといて下さい。外に仕事にでも出られたらどうですか?」
と、その神経内科の先生はおっしゃり、Aを「軽いノイローゼ」と診断されました。
p157〜
でも「病名をあえて付けたらそうなるだけで、あまり心配しなくてもいいです」とも説明されました。
下に2人いたので、私は外に働きには出られませんでしたが、それ以降は、なるべくAには忘れ物の注意など必要最小限にして、できるだけ構わないように気を付けました。
Aが逮捕された後の精神鑑定のときなどに、
「僕はマザコンだった時期がある」
「母を必要以上に愛していたというか、僕のすべてでした」
「母以外の家族は、それほど大事ではない」
などと話していたと、後で弁護士さんから聞かされました。
でも、Aのそういう時期は、おそらく小学校3年生ぐらいまでではなかったかと思います。Aは小学校の高学年頃には、友達も次第に多くなり、よく外に出て遊んでいました。
p161〜
その冬の12月に、母が長い間飼っていた犬のサスケが老衰で死にました。
サスケは、半年ほど前からボケがきてお腹に水が溜まるので、獣医さんに水を抜くための薬をもらいに通い、薬を餌に混ぜて与え続けていました。
Aも下の弟たちも、よくサスケを動物病院に連れて行ったり、家族全員で看病していたのですが、結局その日の朝、起きたら死んでいたのです。
「年とっていたから、老衰であかんかったみたいやわ」
起きてきたAに説明すると、「うん・・・、可哀想やな」と言ったと思います。
私は泣いていましたが、意外にも息子たちは3人とも泣きませんでした。
やはり男の子だけに強いな、しっかりしてきたな、と思ったものでした。
Aもサスケをずいぶんと可愛がり、よくサスケをの餌を横取りしにきた野良猫を、追い払ったり(p162〜)していましたが、まさかその頃、カゲで猫を殺して解剖するなどという酷いことをしていたとは、私には想像することすらできませんでした。
しかも、Aは中学生になって、拾ってきた緑亀を庭の水槽で飼うようになりましたが、日曜日には水槽の水替えや甲羅干しにと、このときばかりは弟2人と仲良くせっせと面倒を看て、亀を3人の宝物にしていたので、同じ生きものを虐待するという残酷な面をAが持ち合わせているなどとは、とても考えられませんでした。
p167〜
翌月2月、Aが土師淳君を殴る騒ぎを起こしたと、先生から連絡を受けました。私はびっくりして、慌てて土師さんのお宅にお詫びの電話をしました。
「うちのAの方が淳君より大きいのに。本当にごめんね」
淳君は三男の友達で、家にもよく遊びに来ていましたから、本当に申し訳なく思いました。土師さんの奥さんは、そのとき「かまへんよ」と優しくおっしゃってくれました。
職員室で、Aは「あの子がちょっかい出したからや」と言い訳をしていたそうですが、土師さんのお宅に先生に伴われて謝りに行ったとき、奥さんがAの言葉を優しく聞いて下さったので、最後は泣いて謝ったと、先生から電話で聞き、少しは安心しました。
家でもAに懇々と言い聞かせたつもりだったので、反省しているものと思っていました。
でも、結果的にAは、何も分かっていなかったのです。
二度目は、どんなに泣いて謝っても取り返しのつかない、永遠に許されるはずのない行為、命を奪うという酷いことを、あの子は淳君にしてしまった・・・。
なぜ、理由もないのに、淳君を・・・。
いくら考えても考えても、私には分かりません。
p168〜
淳君は、三男の小学校3年時の友達でした。
その頃、よく家に遊びに来て、三男と一緒におやつを食べたりしていたので、私の顔も覚えていてくれたようです。
たまたま、スーパーで買い物をしていた時に淳君と会ったら、パーッと駆け寄ってきて、「おばちゃん、これ」と買ったばかりの玩具を見せてくれました。
「淳君、どうしたん、それ」
後ろに淳君のお兄さんがいて、ニコニコしながら見守っていました。
「お兄ちゃんに買うてもろたん?」
「うん」
淳君は感情表現が豊かな子で、嬉しさが満面に出ていました。
「よかったねえ」
すると、すすすーとお兄ちゃんの後ろに回り、楽しそうに連れだって帰って行きました。
今でもそのときの淳君の笑顔が忘れられず、どうしたらいいのか混乱し、自分の親としての無力さ、不甲斐なさを呪い、やり切れない気持ちになります。
p169〜
Aは淳君とは年が離れていたので、一緒に遊んでいる姿はほとんど見たことがありませんでした。でも家でおやつを食べるときなどに、顔を合わせる機会は何回かありました。ですから淳君も、「三男のお兄ちゃん」としてAの顔は知っていたのだと思います。
あと中学に入った頃、Aは弟たちと一緒に、庭で亀の水槽の水替えをよくしていました。そんなとき、遊びにきた動物好きの淳君も一緒に亀を見ていたと思います。
p170〜
Aが淳君をタンク山に誘ったとき、「亀を見に行かないか?」と声をかけたと後になって知り、胸が詰まりました。
淳君は男の人を怖がりました。だから誰にでも付いて行くようなことは、絶対なかったと思います。たまに夫と顔を合わせても、すーっと玄関から出て行ってしまうこともしばしばあったほどでした。
今考えると、Aでなければ、簡単には淳君をタンク山に連れだせなかったでしょう。
淳君が、三男と友達にさえなっていなかったら・・・。
家でAと顔を合わせてさえいなかったら・・・。
ウチの家とさえ関わらなければ・・・。
・・・恐らく、今もご家族と元気で暮らしていたでしょう。
土師さんにどうやってお詫びしてよいのやら皆目分からず、考えれば考えるほど、頭は混乱してしまいます。お手紙を書いても、気持ちを伝える言葉も思い浮かばず、ただ申し訳ありませんと繰り返し書くことしか、今の私にはできません。深く頭を下げ、夜寝る前にただただご冥福を祈ることしか、なす術がない毎日です。
Aが淳君を殴った翌月の3月、春休みに入ってから、Aと友達4人が万引きで補導され、夫が学校へ呼び出されました。
p171〜
私は、同級生のお母さんから連絡を受けて知りました。
万引きした品物は、温度計だと聞きました。
「これどないしたん?」
Aはじーっと黙っていました。
〈なぜ、温度計なんか盗ったのかしら----〉
当時はその理由が分からず、ただ不思議でした。
でも、その頃Aが、猫を解剖したり、温度計の水銀を集めて猫に飲ませたりしていた、と逮捕後の報道で知り、頭を何かで殴られたような気分になりました。
いくらAを問いただしても、万引きを認めようとしないので、一緒に補導されたメンバーの親同士が話し合って、品物を返しに行き、親の連帯責任ということで万引きした分の代金をお店に支払いました。
「お金を払わないと、これ泥棒と同じやねんで、A。お金を払わないと絶対、店の品物は自分の手元に置いたらいけない。店の品物は自分がお金払って、初めて自分のモノになるんやで」
当たり前のことを説教しなければならない自分が、とても情けなくなりました。
p172〜
「分かりました」
Aは一応そう返事はしましたが、万引きをその後も止めなかったことを、これも後で知りました。家宅捜索で出てきたナイフや大工さん用の工具など、事件に使用した道具はすべて、万引きで調達していたというのです。
この春休みの万引き事件を境に、Aが私たちに今まで見せたことのなかった悪い面が、次第に露になってきたように思います。徐々に、それまでの「泣き虫で気の弱い」Aではなくなっていたのです。
Aが中学に入学してから逮捕されるまで、私たち夫婦は十回以上も学校や迷惑をかけたお宅を訪ね歩き、頭を下げに回りました。
中学に入ってから、私が何を注意してもAは、
「分かった、わかった」
と、さもうるさそうに、軽くあしらうようになっていました。ですから、学校から知らせのあったトラブルは、帰宅した夫に報告し、夫からAを叱ってもらうようにしていました。
夫は手を上げたりはしませんでしたが、Aが問題を起こす度に、
「A、話がある」
と、2階のAの部屋へ上がり、根気強く、繰り返し注意をしていました。
p172〜
そのためかAは、父親と顔を合わせるのを避けているように見えました。
「ただいまー」と夫が帰ってくると、Aは居間からヒューッと2階の自室に消えてしまうのでした。
〈男同士、あれこれと喋るのは億劫なのかな〉
私はそんなふうに思いました。
でも、夫がいくら注意しても効果はほとんで現れず、Aはいつしか歯止めがきかなくなっていたのです。
p233 6章 Aの「精神鑑定書」を読みおえて--母の手記
p258〜
Aが母親である私の愛情に飢え、怖がっていたことは、あの子の口から鑑定人に語られていました。
Aが小さい頃、私はあの子が弟を泣かしているのを見て、「泣いたらやめなさい」とお尻をぶっていました。週2、3回だったかもしれません。
Aは、私がAを嫌っているから、叱ったと思っていたようでした。
私の母、Aにとっておばあちゃんは、Aをよくおんぶしていました。
母は腕の力が弱っていたので、いつも背負っていたと思います。
私は肩凝り症だったので、Aをおんぶした記憶はあまりありませんでした。
あの子が温もりを感じたのは、おばあちゃんの背中だけ。(略)
p259〜
あの笑顔はすべて作り物で、本心ではなかったのでしょうか。
私が厳しく叱った記憶しかAには残らず、追いつめたのでしょうか。
Aは警察署や神戸少年鑑別所で、いろんな絵を描いていたようです。
鑑定書の中に「淳君の絵は清らかで聖なるものとして描いてあった」と記されていました。それなのにAはなぜ、淳君の命を奪ってしまったのでしょうか?
Aが家裁で描いた家族画が何枚かあるそうです。その絵というのは、一家の団欒風景を描くようにと言われて描いたものだそうですが、なぜかテレビを囲んで5人の首だけが並んでいるというものとか、布団が敷いてあって、家族5人の首から上だけが出ているといった、奇妙な絵ばかりだったそうです。
「家族においては深い相互作用の欠如とジェンダー(性)の未分化性が深層において支配的だった」
深い意味は分かりませんが、要は家族に本当の意味での絆が薄かった、と指摘されているのかと思います。(以下略)
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