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朝日新聞「慰安婦報道」全真相!「売国奴」と呼ばれた記者の現在--植村隆インタビュー 青木理

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 現代ビジネス 2014年12月18日(木) 青木理  
朝日新聞「慰安婦報道」全真相!「売国奴」と呼ばれた記者の現在---元朝日新聞記者・植村隆インタビュー (前編)
 青木理著『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』より
 今回の事態をめぐっては、一方の当事者たちの声がほとんど外部に伝えられていない。猛烈な朝日バッシングばかりが横行する中、朝日を叩く者たちの声や主張は過剰なほど喧伝され、あふれかえり、その論調に沿った形で朝日側の人びとの「言い訳じみた声」や「みじめな姿」はいくどとなく紹介されたものの、当の朝日幹部や現役記者、有力OBたちの声や反論は、まったくといっていいほど伝えられていないのである。
 これは、朝日を叩く側の責だけに帰せない問題も背後に横たわっていると私は思っている。
 そもそも日本は、所属する組織や団体への忠誠と帰属意識を求める風潮がきつく、メディア企業もけっしてその例外ではない。かつて大手のメディアに所属していた私にはよくわかるのだが、近年はその締めつけがますます強まっている。いつごろからのことかは判然としないものの、大手メディアに所属する記者たちは、外部で積極的に原稿を書いたり発言をしたり、そうしたことごとのハードルが以前よりずいぶん高くなってしまった。
 スター記者の登場を望まないようなムードもはびこり、社の外でさまざまな活動をしたり、社の垣根を越えて幅広いメディアで発言するような記者は、どちらかといえば組織の秩序を乱す者として煙たがられてしまうケースの方が多くなっている。
 これもまた、言論の自由をなによりも尊ぶべきメディア組織として大いなる問題をはらんでいるのだが、そうした風潮の中、今回の朝日バッシングが起こったせいもあるのだろう。朝日の社内ではそれなりの議論が巻き起こり、それはそれで健全なことではあると思うが、外部に向けて朝日の幹部や現役記者、有力OBなどが堂々と論陣を張るシーンにはとんとお目にかからなかった。せいぜいが朝日バッシングに便乗して奇妙な論を唱える幾人かの奇矯なOBの声が取り上げられた程度だった。
 これは断じて好ましくない、と私は思う。世の大勢がひとつの方向に雪崩を打って流れた時、それに疑義をつきつけたり別の視点からの考察材料を提供したりするのもメディアとジャーナリズムの役割であると考えれば、ひたすら叩かれている側の言い分もきちんと記録され、広く伝えておかなければならない。
 だから私は、今回の朝日バッシングの中、徹底的かつ一方的に叩かれまくった人びとを訪ね歩き、せめてその話に耳を傾け、記録し、伝えようと考えた。誰もそうした作業をしない中、叩かれた者たちの声を伝えることは、なんだか私の責務のような気分にもなっていた。
 そう思い立つと、話を聞きたい人物は幾人も思い浮かんだ。しかし、真っ先に会わねばならない人物は明らかだった。まずはその人に会うため、私は空路、札幌に向かった。
*植村隆氏との7時間の対話
 2014年10月23日、札幌は紅葉が美しい季節を迎えていた。冬の気配がひたひたと近づき、肌に触れる空気はひんやりと冷たいが、秋晴れの青空はどこまでも澄みわたり、色とりどりに染まった公園の樹々や街路樹がまぶしいほどに輝いている。
 なのに私は、憂鬱だった。これから会う人物が置かれている悲惨な状況を考えれば、ねほりはほり話を聞き出すのは決して楽しい仕事ではない。
 たとえばネットで彼の名を検索すると、すさまじい罵詈雑言が次々に目に飛び込んでくる。
 「国賊」「売国奴」「反日工作員」「捏造記者」「土下座しろ」「腹を切れ」「アカ」・・・。
 彼への攻撃はこの程度にとどまらず、ネット上の罵詈雑言は彼の家族や高校生の愛娘にまで及んでいる。制服姿の写真や実名がさらされ、こんな書き込みがいくつも画面に浮かびあがる。
 「国賊のガキ」「反日サラブレッド」「自殺するまで追い込む」・・・。
 溜息しか出ない。どのような連中が、どのような気持ちで、どのような表情をしながら、キーボードを叩いているのか。
 だが、ネットというヴァーチャルな空間だけの出来事なら、まだマシだといえるのかもしれない。詳しくはあらためて後述することになるが、リアルな世界でも彼への攻撃はすさまじい勢いで拡散し、彼が教員として再就職が内定していた大学には嫌がらせの電話や抗議などが相次ぎ、内定が取り消されてしまうという被害を受けた。いまは札幌の大学で非常勤講師の仕事を細々とつづけているが、この大学にも嫌がらせや抗議が寄せられ、ついには脅迫状まで送りつけられ、大学当局も頭を抱えている。
 それでも私は、彼を攻撃する者たちが聞きたがっているだろうことも聞かねばならなかった。どうしようもなく低劣な罵声をネットに書き込むような連中の言い草はともかく、それなりの論理にもとづく批判や非難については、彼がきちんとした反論をできるかどうかを含め、問うべきことは徹底的に問わねばならないと思いさだめていた。憂鬱になるな、というほうが無理というものだろう。
 だが、札幌市郊外にあるホテルのロビーで待ち合わせた彼──元朝日新聞記者の植村隆氏は、こちらが拍子抜けしてしまうほど明るい様子で私を出迎えてくれた。
 「青木さんさ、僕、性格が明るいんだよ(笑)。前向きで、あまり落ち込まない。いまでもね、みんなは『大変だ、大変だ』って言ってくれるし、客観的に見たら大変なんだけど、あまり落ち込まない。まあ、たまには落ち込むけど、何とかなるんじゃないかなっていう気がしてる」
 それが本心なのか、同業の後輩である私に強がってみせているだけなのか、人の心の中を見通すことなどもちろんできはしない。ただ、長時間にわたったインタビューの途中、一度だけ植村氏が涙ぐんだことがあった。これもあらためて後述するが、涙ぐんでしまうのも当然のように私には思われた。
 そんな植村氏へのインタビューは、苦境の植村氏を支援してくれているという老夫婦の居宅で行われた。
 インタビュー時間は、夜の会食を交えたものを含めれば7時間以上に及び、植村氏が批判の俎上に載せられているすべてのことごとについて詳細に訊くことができた。
 以下、インタビューの内容は、私の論評などとはきちんと分け、一問一答形式で順次紹介していこうと思う。記録としての重要性を担保するためだが、植村氏のことを詳しくご存じない方のために、最初に経歴を簡単にふりかえっておきたい。
 1958年4月生まれ、高知県出身の植村氏は、早稲田大学政治経済学部を卒業して82年、朝日新聞社に入社した。以後、仙台支局や千葉支局、大阪本社社会部、東京本社外報部などに勤務しつつテヘラン、ソウル、北京の各地で特派員生活を送っている。
 この間、外報部次長として取材班のデスク役を務めた「テロリストの軌跡 アタを追う」の連載が2002年度の新聞協会賞を受賞し、外報部を離れて北海道支社に異動後は函館支局長などを務め、14年3月をもって朝日を早期退職した。インタビュー時点での年齢は56歳ということになる。
 早期退職前から教員として再就職が決まっていた大学に内定を取り消されたのは前述のとおりであり、このことについてはインタビューの中でも尋ねることになる。
 その植村氏が凄惨なバッシングにさらされる原因となったのは、いまから四半世紀近くも前、大阪本社の社会部に所属していたころに書いた2本の記事であった。このうち、特に問題視されているのは1991年8月11日、大阪本社発行版の朝刊社会面トップに掲載された次のような記事である。

《 思い出すと今も涙
 元朝鮮人従軍慰安婦
 戦後半世紀 重い口開く
 韓国の団体聞き取り
 【ソウル10日=植村隆】日中戦争や第二次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた 》

 見出しとリード部分のみの引用だが、この記事は、韓国の元慰安婦がみずから口を開いたことを伝えるはじめての報道となった。批判者たちはこれを「元慰安婦の存在と証言を特ダネとしてスクープした重要記事」と位置づけ、《植村記者はある意図を持って、事実の一部を隠蔽しようとした》と主張し、記事には《事実のねじ曲げ》や《事実の捏造》があると徹底した罵声を浴びせかけてきた(たとえば東京基督教大学教授の西岡力氏ら)。
 さて、細かい批判の論点についてはおいおい紹介していくこととし、そろそろインタビュー本編に入っていこう。まずは植村氏の社歴をさかのぼり、なぜ元慰安婦の記事を書くに至ったのかについて訊く。やや迂遠かもしれないが、植村氏がどのような記者生活を送り、どのような思想信条の持ち主なのかを知るのは、この問題を解析するうえで必須だと思われるからである。
*なぜ慰安婦報道に関わることになったのか
──植村さんは1982年の入社ですか。
 「82年の4月です」
──学生時代から新聞記者志望で?
 「もともとは山登りが好きで、登山家になりたかったんです(笑)。高校も山岳部で、北海道大か京都大の山岳部に入りたかったけど、落っこっちゃって。僕にとっては大都会の京都で浪人生活を送っているうち、新聞記者になりたいと思うようになって、それで早稲田へ」
──朝日に入社後の配属は?
 「まずは仙台支局と千葉支局。県警と司法の担当が長かった。千葉支局でも県警担当のキャップだったし、特に裁判の取材が好きでね。仙台では死刑再審の松山事件の取材に熱中してました。だから僕は当然、社会部に上がるもんだと思ってたんです。ところが87年に韓国への留学が決まってね」
──留学先は、韓国語の教育機関となっている延世大学の韓国語学堂ですね。
 「ええ。社内から若手の記者を選抜して1年間、語学を学ばせてくれる。僕は千葉支局でそれに選ばれて、外報部に上がることになりました」
 ──韓国への留学は希望したんですよね?
 「いや、当時はそんなに希望した気もなかったんです」
──というと?
 「もちろん大学時代から韓国には関心があった。住んでいた寮には在日コリアンの先輩もいたし、大学時代には朴正熙元大統領の暗殺(79年)や光州事件(80年)が起きて、その背後の首謀者とされた金大中氏への死刑判決(81年)もあった。
 そういう時代だから韓国には関心がありました。アルバイトしたカネを貯めてはじめて外国旅行したのも韓国だったし、自分でもコツコツと韓国語を勉強したり、金大中氏を救えっていう運動が世界中であって、そのデモなんかにも行っていた。
 ただ、別にソウル特派員になりたいとか、漠然とした希望はあっても、それは現実的なものじゃなくて・・・。サツ回りに夢中になってましたからね」
──じゃあなぜ留学を?
 「角川(書店)の『朝鮮語大辞典』を支局の机に置いてたんです。そうしたら当時の千葉支局のデスクが『お前、韓国語できるのか』って。『いや、少しは・・・』って言ったら、『語学留学に応募しといてやったからな』って、いつの間にか応募されてた(笑)。ぜひ行かせてくれっていう感じでもなかったんだけど、選ばれちゃいましてね。それで(韓国留学に)行ったのが87年の8月」
──そして1年間留学してから国際ニュースを扱う東京本社の外報部に?
 「88年の8月に(留学から)帰ってきて、その後は外報部で内勤を1年ちょっとやってました。(新聞社内で)"原籍"みたいなのってあるでしょう。僕は最初に支局をふたつやって、あがったのが外報部だから"外報部籍"みたいな感じだったんだけど、海外特派員をやるためには社会部とか政治部とか(本社の)出稿部門を経験した方がいいっていう当時の伝統があって、僕の場合は大阪の社会部に出された。まあ、"修業"みたいな感じですね」
──大阪本社の社会部には何年くらいいたんですか。
 「89年11月からの2年5ヵ月。それから外報部に戻って1年半くらい内勤をして、93年8月にテヘラン特派員になった」
──大阪社会部にいた2年半は、警察や官庁などの記者クラブ担当はしなかったんですか。
 「いや、遊軍(特定の記者クラブなどに所属せず、社会部で比較的自由な取材をする記者たちを指す新聞業界用語)で、主に在日韓国・朝鮮人の担当。僕らは『民族担当』って呼んでたんだけど、民族問題や被差別部落の問題、それに気象台も担当しました。まあ、気象台はサボってしまってあまりやらなかったけれど」
──大阪には在日コリアンや被差別部落が多いから、主要メディアは大阪社会部に各社、必ず1人はそういう人権問題を担当する記者を置いていましたよね。
 「そう。僕は韓国に留学して、言葉も生かして取材できるっていうことでね。それに当時は在日韓国人の政治犯問題があったんです。70年代から80年代にかけて、在日韓国人の若者たちが母国語の勉強などのために韓国に留学して、北のスパイだとか政治犯として捕まっちゃうことがあった。そんな取材もしていたから、ソウルにも出張していました」
──そこで問題の核心に入っていきますが、大阪社会部に"修業"でやってきた若手記者の植村さんが、どうして慰安婦問題の取材にかかわることになったんですか。
 「当時、鈴木規雄さんっていうデスクが(大阪社会部に)いましてね。人権問題とか戦後補償の問題とか、そういう問題にも深い理解があった。非常にヒューマンな人で、朝日新聞の中でも多くの人に慕われ、尊敬されていた人だった。
 その規さんが地方支局のデスクだった時代、日本人の元慰安婦のおばあさんの連載を地方版でやったことがありましてね。僕は当時、詳しくなかったんだけど、韓国にも元慰安婦がいるんじゃないかって言い出した。いま考えれば鋭いんだけど、証言が取れないだろうかっていう話になった」
──それはいつの話ですか。
 「90年の夏。大阪の新聞って、夏の平和企画が一大仕事なわけですよ。青木さんはご存じだろうし、新聞各社はどこもそうだと思うんだけど、大阪って政治部とかがなくて、社会部しかないから、広島の原爆とか終戦記念日前後の平和問題は力を入れた独自の取材で大きく扱う。毎年の"伝統行事"みたいなものです。その平和企画取材で、規さんのサジェスチョンで90年の夏に2週間、元慰安婦を探すために韓国へ出張することになった」
  〈後編につづく〉

2014年12月19日(金) 青木理
朝日新聞「慰安婦報道」全真相!「売国奴」と呼ばれた記者の現在---元朝日新聞記者・植村隆インタビュー (後編)
*元慰安婦を探して韓国へ
 植村氏が語る朝日の大阪本社社会部の雰囲気は、私も通信社の駆け出し記者としてほぼ同時期、大阪社会部に在籍したことがあるから、実感としてよく分かる。
 在日コリアンや被差別部落が多い大阪の社会部には、各社とも人権問題や民族問題を主に担当する記者を置いていて、その世界に精通したベテランの記者やデスクが必ずいた。近ごろはめっきり少なくなってしまったらしいが、東京の社会部にだって、大阪ほどではないにせよ、平和や人権問題を担当するデスクや記者はいたものだった。
 だが、そうしたデスクや記者は、どちらかといえば社会部の中で傍流というべき存在だった。東京や大阪に限った話ではないが、社会部記者の"花形"といえば、いまもむかしも事件記者である。東京なら警視庁、大阪なら大阪府警に多数のサツ回り記者が配置され、捜査当局の動向などにかんする特ダネを抜きあうために朝回り、夜回りを繰りかえす。
 特捜検察をウォッチする検察担当記者も同様だ。彼ら、彼女らが放つ事件がらみの特ダネは紙面を派手に飾ることが多く、優秀と目された記者は警察や検察担当の記者クラブに突っこまれる。畢竟、そうした者たちが肩で風をきって社内を闊歩し、人権や平和問題、市民団体などの動きを地道にフォローする者は圧倒的な少数派となってしまう。人事的な面でも冷遇される傾向が強く、最近は各社の大阪社会部でも平和や人権問題などをフォローする記者が絶滅寸前らしい。
 そうした記者、デスクのひとりだった「規さん」こと鈴木規雄氏に、私は会ったことがないのだが、その勇名は大阪でも東京でもいくどとなく耳にした。
 1987年5月、兵庫県西宮市の朝日阪神支局が何者かに襲撃され、散弾銃で記者が殺傷された事件をきっかけにはじまった朝日の長期連載企画「『みる・きく・はなす』はいま」を記者、デスク、部長として一貫して手がけた。戦後補償や平和問題の取材にかかわり続け、同じような仕事を志す多くの後輩記者に慕われ、東京本社の社会部長や大阪本社の編集局長などを歴任した。
後の節であらためて述べるように、実をいうと朝日の慰安婦問題報道も鈴木氏がキーパーソンともいえる存在だったようなのだが、残念ながら直接話を訊くことはもはやかなわない。2006年1月7日、急性骨髄性白血病のため、この世を去ってしまっているからである。まだ59歳という若さだった。
 その鈴木氏が大阪社会部のデスクだった90年の夏、若手記者だった植村氏は、「元慰安婦探し」の命を受けて韓国に飛んだ。
──ところで、韓国への出張取材は、どうして植村さんが行くことになったんですか。
 「僕は慰安婦問題の取材はしたことがなくて、在日韓国人政治犯の問題をずっとやっていたんですけど、韓国語もできるし、規さんは広い目で(部下を)いろいろ見ててくれたから、そういうのがあって派遣されることになったんだと思います」
 ──それで2週間、出張した結果は?
 「空振り。釜山なんかにも行ったり、いろいろ動いてみたけどダメでした。それからしばらくして、規さんも書いてました。『窓』っていう夕刊のコラムで『記者を2週間も韓国に派遣して探したが、見つけ出せなかった』って」
 調べてみると、鈴木氏のコラムは92年9月2日付の朝日夕刊にたしかに掲載されていた。植村氏を攻撃する人びとは、さまざまな角度から植村氏の取材経緯に疑心を唱え、朝日側も14年8月5日付朝刊の検証記事で反論を掲載、取材経緯などに瑕疵はなかったと主張しているのだが、こうした経過があったとするならば、問題となった91年8月11日付の記事を植村氏が、しかもわざわざ大阪から出張して書くことになった理由が、納得のいくものとして胸に落ちてくる。
 植村氏へのインタビューを続けよう。
──では、91年8月11日の記事を書くことになったのは。
 「当時のソウル支局長から、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)共同代表の尹貞玉さんが元慰安婦のおばあさんの聞き取り調査をしているらしいよ、っていう話を聞かされたんです。
 尹貞玉さんは韓国の慰安婦問題の第一人者なんですが、前年(90年)の夏にもお世話になってたし、支局長も僕が元慰安婦探しをしていたのは知っていましたから。だから『植村君、取材しに来たらどうかね』と声をかけられたんです」
──前年夏のことがあったのを知れば、そういう話になるのは納得できます。ただ、それでも疑問は残る。朝日のソウル支局には、当時でも支局長以外に特派員がいたでしょう。なぜ支局で取材しなかったんでしょう。
 「当時の支局長は外報部の先輩だからよく知っていたし、いつも連絡を取り合っていた。当時のソウル支局は特派員2人体制だったけど、南北朝鮮の国連同時加盟問題など冷戦後の朝鮮半島問題の取材で非常に忙しかったんです。それで僕に声をかけてくれたようです。当時の支局長のメモ帳にも、尹さんから聞いた元慰安婦女性の情報が残っています」
──それで?
 「それじゃあ是非行きたいっていうことで、大阪社会部はすぐに許可が出るから。ちょうど夏だし、夏の大型平和企画なんかでもできるんじゃないかということでね」
──まだ疑問は残ります。これは一種の特ダネになりうるわけでしょう。なのに、どうしてわざわざ大阪の植村さんに?
 「いまになってそういうことを言われてて、僕を批判する人たちはあの記事(91年8月11日朝刊の記事)が『慰安婦問題に火をつける超重要な大スクープだった』なんて言うんだけど、当時はスクープだとか特ダネなんていう意識、ぜんぜんありませんでした。実際、ほとんど関心を呼ばなかったから」
 ──どういうことですか。
 「朝日でも大阪本社版は社会面トップの記事になったけど、東京本社版は翌日(8月12日)の朝刊に4段の記事が掲載されただけ。僕の記事の3日後(8月14日)には北海道新聞が(当該の元慰安婦への)単独インタビューに成功して、同じ日に共同記者会見をして、韓国紙にはいろんな記事が掲載されたんだけど、この会見を毎日や読売の特派員もフォローしてないんです。
 最近あらためて調べてみたんですが、全国紙だと、読売が最初に報じたのは8月の下旬。これもソウルの特派員じゃなくて、大阪の記者が書いてる。毎日が報じたのは9月に入ってから。大きなニュースだっていうなら、8月14日に記者会見をしてるんだから、その時にフォローするでしょう。
 もし会見に行けなくても、次の日の韓国紙に記事が出てるんだから、転電(外国メディアの報道を引用して記事にすることを指す新聞業界用語)したっていい。でも、やってない。はっきりいって、その程度のものだったんです。どの社も大した関心を持たなかった」
*スクープという意識はまったくなかった
 このあたりは少し補足説明が必要だろう。
 韓国人の元慰安婦としてはじめてみずから名乗りをあげた女性の名を金学順(当時は67歳、1997年に死去)という。91年の8月11日、植村氏はたしかに彼女の証言を他メディアに先駆けて世に伝えた。ただし、あくまでも韓国の運動団体「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」から証言記録の提供を受け、それを記事化しただけであり、金学順には会ってもおらず、記事中に実名すら出てこない。
 そして植村氏の記事が出てから3日後の8月14日、金学順は北海道新聞の直接取材に突如応じ、直後にはソウル市内で共同記者会見を開いた。翌8月15日付の北海道新聞朝刊はインタビュー内容を伝えたが、植村氏が指摘したように、その他の日本の新聞各社はこれらをまったく報じていない。
 実際に各紙の縮刷版やデータベースを調べてみると、読売が金学順のことをはじめて報じたのは91年の8月24日。先の植村氏の話に「韓国の元慰安婦探しの第一人者」として登場した尹貞玉氏が来日したことを伝える記事中でのことだった。毎日の初報はそれからさらに遅れること1ヵ月以上あとの9月28日。東京社会部所属の女性記者が金学順に直接取材し、「記者の目」というコラムコーナーで執筆したのが初出である。
 こうしてみると、植村氏の記事が「慰安婦問題に火をつけた」「重要な大スクープだった」などと評するのは、いかにも大げさにすぎることがよく分かる。私もソウルで特派員生活を送ったことがあるのだが、重大なスクープだったというのなら現地ソウルの特派員たちが直ちに取材し、「追っかけ記事」を書く。ソウル特派員のニュース感覚が鈍くて反応しなくても、東京本社のデスクから「すぐに取材して記事を書け」と発破をかけられる。
 つまり、当時はそれほど重大なスクープだと認識されていなかった。しかも、最初に伝えたとはいっても、運動団体から提供された証言記録を書き写すのと、直接インタビューして書くのとでは迫力がまったく違う。
 また、一連の経過を眺めると、日韓関係に棘のように刺さった慰安婦問題は、別に植村氏の記事がなくともいずれ火を噴いたのは間違いないことが分かる。すでに金学順は挺対協に名乗り出て証言を寄せていたのだから、何らかの形で報じられるのは時間の問題だったし、実際に実名を明かして直接インタビューに成功したのも朝日ではなかった。
 まして、当時の植村氏に「なんとしても慰安婦問題に火をつけたい」という思惑があったなら、北海道新聞と争ってでも直接インタビューを行い、わずか3日後に開かれた金学順の共同記者会見なども徹底フォローし、連続して記事を送ろうと躍起になったはずではないか。
 ところが植村氏は、そうした記事を一行たりとも書いていない。いったいなぜだったのか。
──8月11日付の朝刊用にソウル発の記事を送ったあとはどうしたんですか。
 「12日に大阪へ戻りました」
──どうしてですか。14日の共同記者会見に出ようと思わなかった?
 「会見があるのを知ってたら、ソウルに残ったに決まってますよ」
──じゃあ、知らなかったんですか?
 「知らなかった。前日(13日)くらいには(会見をすると)決まってたのかもしれないけど、少なくとも僕は12日に大阪へ戻ってしまっていたから、知らなかった」
──それほど急に会見が行われると決まったんですか。
 「詳細は分からないけど、僕は大阪に戻ってから尹貞玉さんに電話してるんです。
 どうやら北海道新聞はソウル特派員が以前から取材を申し入れていたようで、金学順さんが突然実名で取材に応じた。直後に韓国の新聞とテレビの記者を呼んで会見をやったらしい。もしそんな記者会見するのを知ってたら、僕は間違いなくソウルに残りました。わずか3~4日の話なんですから」
──なんだか北海道新聞にやられたような感じもありますね。
 「そう。僕としてはスクープしたなんて思ってない。慰安婦問題に火をつけたとか、歴史を変えたとか、そんなことだって思ってない。もしそうなら、当時のソウル特派員がもっとバタバタして記事を書いてるはずでしょう」
──朝日の社内で何かの賞をもらったとかは?
 「ない。あるわけない。むしろ当時は、まさに北海道新聞にやられたっていう感じで、悔しくてしょうがなかったのを覚えてます」
*当時、慰安婦問題とどう向き合ったか
 以上のような植村氏の話を裏づける証拠として、ある雑誌の記事をあげることができる。在日コリアンらに民族の文化、生活情報などを発信していた雑誌『MILE』。雑誌名は韓国・朝鮮語で「未来」を意味し、1988年6月に隔月刊の雑誌として発行され、90年からは月刊誌となっていたが、96年末を最後に休刊してしまっている。
 この『MILE』誌の91年11月号に、植村氏は長文の原稿を寄せていた。90年の夏から91年の夏にかけ、慰安婦問題報道にどうたずさわったかをみずから率直に記した内容である。
 いうまでもないことだが、当時の植村氏は、自身の記事がのちに猛批判にさらされるなどとは夢にも思っていない。したがって、批判やバッシングへの反論や言い訳を想定した内容ではない。そのことを念頭に置きつつ、記事の冒頭部分を読んでいただきたい。

《「ソウルにいる元朝鮮人従軍慰安婦が語りはじめたらしい。植村君、取材に来たらどうかね」。ソウルのO支局長(筆者注・記事原文は実名)に用事があって電話したところ、こんな内容の話を聞いた。
 女性団体でつくる「韓国挺身隊問題対策協議会」の共同代表をつとめる尹貞玉さん=ユン・ジョンオクさん(六五)らが、元慰安婦の女性を捜し出し、聞き書きを進めているという。尹さんは元梨花女子大の英文学の教授で、定年後、この問題をライフワークにしている。
 たくさんの元慰安婦が、祖国に帰ったにもかかわらず、昨年までは僕の知るかぎりでは韓国内でこの忌まわしい体験を公にする女性はいなかった。
 驚きを感じるとともに、さっそく取材に行くことにした 》

 そんな書き出しではじまる原稿は、まだ30歳そこそこの記者の若さというか、幼さというか、そうしたものがにじみ出ていて少し単調な感も拭えないが、私のインタビューに対する植村氏の証言に偽りがなく、まったく等身大の事実だったことが浮かび上がってくる。
 少し長くなるが、続けて『MILE』誌から、一部を略しつつ引用する。

《 昨年の夏、二週間ほど、慰安婦たちの証言を求めて韓国各地を回ったことがある。
 友人である韓国の女性ジャーナリストから「ソウルに話をしてくれる人がいる。以前、インタビューをしたことがある」という話を聞いた。行けば会えるだろうという軽い気持ちで訪韓した。ところが、その女性は既に死亡していた。
 まったく、手掛かりがなくなってしまった。
 それからは、当時梨花女子大教授だった尹貞玉さんをはじめ、いろいろな団体の情報をもとに、各地を回った。(中略)
 しかし、「知らない」という答しか、返ってこなかった。(中略)
 「元慰安婦たちは絶対にしゃべらない。それは死ぬことよりつらいことなのだから」と言われたこともあった。異国に取り残されたものたちは、祖国と絶たれているが故に、身の上を話すことが出来るが、韓国に住む女性はしゃべらないというのだ。ジャーナリストの友人たちに聞いても手掛かりがないという答が返ってきた。
 結局、「幻の取材」となった。
 それが、今年になって大きく変わったのである。
 ソウルについて、すぐに梨花女子大近くにある尹先生の家に行った。尹先生は、十年ほど前から、慰安婦問題を調べている。昨年十一月には、十六の女性団体で「協議会」が出来、本格的な調査に入っている。(中略)
 沈黙を破った慰安婦のことを聞いた。
 つい最近、友人に伴われて協議会の事務所に来た、という。「日本政府が挺身隊があったことを認めないことに腹が立ってたまらない、と名乗りでたのです。おそらく現在、韓国で自分が慰安婦だったということを証言しているのは彼女だけでしょう」と尹先生。
 次の日、協議会のメンバーが録音したこの女性の証言テープを聞かせてもらった。個人のプライバシーを守るため、名前も公表せず直接会わないことも約束した。
 この女性は中国で慰安婦をさせられた。六十七歳で独り暮らし。中国の東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にさせられた。二、三百人の部隊がいた中国の街で日本軍人相手に売春をさせられたという。
 約三十分のテープでは淡々と身の上をしゃべっていたが、協議会の人によると、話す前に泣いていたという。尹さんは「これからも聞き書きを続けていきます」と話していた。
 取材を終えて、帰国した。数日して、尹さんに電話すると、(筆者注・八月)十四日の二度目の聞き書きの際に、この女性は「日本政府は挺身隊の存在を認めない。怒りを感じる」と言って、名前を公表し、自分の体験を発表すると申し出た。このため、それまでは非公開で調査を進めていたのが、急遽、韓国の報道陣に公開されることになった。
 ソウル市鍾路区にすむ金学順=キム・ハクスン=さんという。テレビでは、その夜のニュースに流れ、十五日(光復節)の新聞では「韓国日報」が社会面に写真入りで六段記事で伝えたのを始め、各紙とも大きく伝えた。大きな反響を呼んだ。
 尹さんたちは、さらにこの問題を調査するため九月からはソウルの事務所に、女性たちからの申告を受けつける電話を設置する予定だ。韓国のマスコミはさまざまな形でこの問題を取り上げはじめており、情報はさらに膨らんでいく可能性がある 》
 (以上、『MILE』91年11月号から)

──『MILE』誌の記事は、いつ書いたんですか。
 「あれはたしか91年の9月上旬ぐらいが締め切りだったと思うから、ソウルから大阪に戻ってきて1ヵ月後ぐらいです」
──この記事を読むと、当時の植村さんの動きや気持ちがよくわかりますね。
 「ええ。僕も書いたのは記憶していたんだけど、内容は忘れていたんです。ところが今回、僕が猛烈に攻撃される事態になってから、朝日の慰安婦問題検証取材チームの記者が見つけてくれた。そうしたらここに取材の経緯なんかも全部書いてある。この時はバッシングを受けてたわけでもないし、別に何かのアリバイづくりのために書いてるわけでもなく、単に正直に当時のことを書いていただけですから。これが一番正確だと思います」
*植村批判のすべてに答える
 ここまで植村氏がどのような記者生活を経て慰安婦報道に携わり、なぜ問題の記事を書くに至ったかの経緯についてのインタビュー内容を紹介してきたが、植村氏の記事をめぐっては現在、いくつかの点で激しい批判が浴びせられている。
 批判する側の主な論点を整理すれば、次の3つに要約されるだろう。
 (1)植村氏の妻は韓国人であり、義母は元慰安婦の裁判も支援した韓国の団体「太平洋戦争犠牲者遺族会(遺族会)」の幹部を務めている。この義母から何らかの情報提供や便宜供与を受け、植村氏の側も義母らの運動を利するため、問題となっている1991年8月11日の記事などを書いたのではないか。
 (2)同じく問題となっている記事では「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」と書いてあるが、工場などでの勤労動員を意味する「挺身隊」と「慰安婦」はまったく異なるものであり、両者を意図的に混同することで国家による強制連行性を強調しようとしたのではないか。
 (3)同じく8月11日の記事では、金学順が14歳の時からキーセン(妓生)学校に通っていた事実などを知っていながら触れず、事実を意図的に歪曲して国家による強制連行性と犯罪性を印象づけようとしたのではないか。
 このうち(1)については、当時の朝日ソウル支局長からの情報にもとづいて取材を開始したことはすでに確実と思われるが、家族というきわめて繊細なプライバシーにかかわる部分も含むから、あとで詳しく触れることとし、まずは(2)の「挺身隊」と「慰安婦」の誤用について植村氏の話を訊き、検証していこう。
──問題の記事が「挺身隊」と「慰安婦」を誤用したことに大きな批判があります。
 「僕らのとき、韓国では『慰安婦』っていう言葉は使いませんでしたからね。青木さんも韓国にいたなら分かると思うけど、慰安婦のことを『挺身隊』っていうでしょう」
──たしかにそうですね。
 「だいたい元慰安婦のハルモニ(おばあさん)たちも『挺身隊』っていう。『慰安婦』なんてあまりいわない。あの当時でいえば、日本の他紙も同じように書いていたし、金学順さんの記者会見を受けて91年8月15日の韓国紙に掲載された記事をみると、本人も会見で『挺身隊』っていっている」

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青木 理 (あおき・おさむ)
 1966年長野県生まれ。共同通信入社後、成田支局、大阪社会部など経て、東京社会部で公安担当。オウム真理教事件、阪神淡路大震災はじめ、様々な事件・事故取材に携わる。2002年から4年間、ソウル特派員。2006年退社し、フリーとなる。主な著作に『日本の公安警察』(講談社現代新書)、『絞首刑』(講談社)、『トラオ 徳田虎雄 不随の病院王』(小学館)、『国策捜査』(角川書店)、『誘蛾灯』(講談社)、『青木理の抵抗の視線』(トランスビュー)などがある。現在、『情報満載ライブショー モーニングバード!』(テレビ朝日系)月曜日コメンテーターも務めている。

 ◎上記事の著作権は[現代ビジネス]に帰属します
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