〈来栖の独白〉
常々「公判で事件の真実を明らかにすることが、義務」と加藤智大被告は言っていた。罪を認めてもいた。が、私の僅かな経験則は、事件の真相が正しく認定されることの困難を感じさせてもいる。
「困難」とともに、被告人の強い謝罪と悔悟の念が、上訴を断念させるのではないか。加藤被告のこれまでの佇まいを見ていて、そんな気がしてならない。控訴せず、1審で確定させてしまうのではないだろうか。死刑を心から受け入れている。そんな気がしてならない。
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東京・秋葉原殺傷:加藤被告に死刑 判決要旨
東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、加藤被告に死刑を言い渡した東京地裁判決の要旨は次の通り。
《責任能力》被告は事件を計画し準備を行い、計画通りに実行しており、意識障害があったと疑わせる事情は認められない。被告は携帯電話の掲示板上での嫌がらせをやめてほしかったと動機を供述するが、周囲に対する不満や強い孤独感などがあったと思われる。性格やものの考え方なども総合すれば動機は十分了解可能である。
被告は事件以前にも自分の意思を暴力的または自暴自棄的な行動で示そうとしたことが度々あった。事件は被告の本来の性格傾向を基盤としたものと理解することができる。被告は事件前に3回もしゅん巡しているし、逮捕後は警察官と話して涙を流した。一連の経過をみれば、被告の善悪の判断能力や行動制御能力に疑問を差し挟む余地はない。
《量刑の理由》事件の遠因には、成育過程で受けた母親による不適切な養育を主な原因とする被告の人格のゆがみがある。しかし、被告は事件当時25歳を過ぎていたし高校卒業後の生活状況も考慮すると、成育歴等が与えた影響は限定的で、刑事責任を大きく減じさせるものとは評価できない。
被告は審理の最終段階になって個々の被害者や遺族に向き合い、被害の深刻さに多少は思いを至らせている。被告なりの反省の姿勢をみてとることはできる。しかし、事件を思いついた発想の危険さ、犯行態様の残虐さ、次々と殺害行為を重ねた執拗(しつよう)さ、冷酷さは、いずれも被告の人格に根差したものであり、根深さや逸脱の大きさからみると更生は著しく困難であることが予想される。
現在28歳と比較的若く、前科前歴がないことや、反省の姿勢を考慮すると、更生可能性が全くないとはいえないが、これらの事情を総合しても、死刑を選択せざるを得ないとの結論に至った。
毎日新聞 2011年3月25日 東京朝刊
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東京・秋葉原殺傷:加藤被告に死刑 被害男性「何が真実だったのか」 内面見えぬまま
白昼の秋葉原を恐怖と混乱に陥れた加藤智大(ともひろ)被告(28)に極刑が言い渡された。法廷で謝罪の言葉を重ねる一方、心を閉ざすかのように親友や被害者の面会を拒絶してきた被告は、身動きしないまま判決を受け止めた。「何が真実だったのか」。事件を語り継いできた被害者の元タクシー運転手、湯浅洋さん(57)は判決後、やるせない思いを募らせた。
「この上なく重い刑です。理解できましたか」。24日午後3時過ぎ、東京地裁104号法廷。判決を読み終えた村山浩昭裁判長に問われると、加藤被告は「はい」と小さく答え、いつも通り傍聴席の被害者に向かって深々と一礼した。「死刑判決を受け入れる気持ちになっているのか」。湯浅さんはそう感じたが、被告の内面はうかがえなかった。
被害に遭った後、湯浅さんは事件を考える集会に参加した。若者たちが「加藤さん」と被告に共感を持つ様子が気になり、事件をもっと知りたいと思った。
被告は自身の3人の子供と同年代。被告に死刑を求めるのは「割り切れない」とも思うが「法の最高刑が死刑である以上、死をもって償うべき事件。死刑以外は考えられない」という。
10年1月から30回に及んだ公判の多くを傍聴した。無表情で淡々と話す被告の姿が印象に残った。「君の人となりが見えない」。今月、被告に手紙を出し、東京拘置所に2度足を運んだが、被告に拒否されて面会はかなわなかった。
被告に刺された右脇腹の約15センチの傷が今も時折うずく。しびれは一生消えないと医者に言われた。「分からないことがたくさんある。第2、第3の加藤被告を生まないために、いろんな人に考えてもらいたい。今後も経験を語り続け、加藤被告本人の話も聞きたい」。傷とともに歩み、事件を考え続けるつもりだ。
◇被告父「見守るしかない」
「何であんなことしたのか本人にも分かってないのでは……」。加藤被告の父親(52)は青森市内で7日「私らとしては見守るしかない」と心境を語った。被害者に対しては「ただただ申し訳ない」と沈痛な表情で謝罪した。
加藤被告は法廷で、事件の背景として「小さい頃の母の育て方が影響した」と語り、24日の判決も「母親の虐待とも言える養育によって人格にゆがみが生じた」と指摘した。
だが父親は被告の発言について「後付けの理由のように思う。よそさまと比べて教育がそれほど違っていたとは思いません」と述べた。自身は仕事で忙しく、被告の教育にほとんど関与しなかったといい「子供のことは妻がやると決めていて、口を出すのは良くないと思った。ただ、どこの家庭にもあることでは」と話した。
判決後の対応は「本人が決めること。私らがどうこう言う筋合いではありませんので」と言葉少なだった。被告は弁護人以外との面会に応じておらず、両親も事件後、本人に会っていないという。【伊藤直孝】毎日新聞 2011年3月25日 東京朝刊
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「秋葉原」判決 孤独と残虐 晴れぬ疑問
北海道新聞 社説(3月25日)
2008年6月に東京・秋葉原の歩行者天国で起きた無差別殺傷事件で、東京地裁は加藤智大(ともひろ)被告に死刑判決を言い渡した。
アキバと呼ばれる若者が集まる街に白昼トラックが突入、通行人らがナイフで次々と刺された。7人が死亡、10人がけがをした。
偶然その場に居合わせただけで突然、命を絶たれた被害者や遺族の無念はいかばかりか。判決が「人間性の感じられない残虐な犯行だ」と断じたのも当然だろう。
犯行の動機も社会に大きな衝撃を与えた。被告は日ごろから携帯電話サイトの掲示板を利用していた。自分の名前を使った投稿など嫌がらせがあり、それをやめさせるのに事件を起こした、などと述べている。
そんな理由で人を殺すとはにわかには信じがたい。理解できない。多くの人はそう感じるだろうが、社会がどう奇異に受け止めようが、それは彼にとっては真実なのだろう。
掲示板は自分が自分でいられる場所であり、帰れる場所だ。そこに書き込みで答えてくれる人は家族同然だ。被告はそうも述べている。
短大卒業後、派遣社員などで各地を転々とし、掲示板に仕事の不満などを書き込んでいたという。
本心を打ち明けられる唯一の相手が、家族でも友人でも職場の同僚でもないネット掲示板だった。現実社会とつながりが持てない孤独な若者像が浮かび上がる。
「幼少期に母親から虐待と思える不適切な養育を受け、他者と信頼関係を築くことができなくなった」
判決はそうした境遇が被告を掲示板に向かわせた一因とし、人間性にも触れた。だが、事件の全体像を明らかにするには、ネット社会や不安定な派遣労働などとの関係にも踏み込む必要があったのではないか。
被告は犯行当時25歳だった。ネットの普及と足並みをそろえるように育ってきた世代だ。IT化時代の典型的な若者と見る専門家もいる。
格差社会の広がりが、人と社会とのきずなを薄めていく。不安定な労働環境で追い詰められ、世の中と向き合わずにネット掲示板だけを居場所と感じる若者は、加藤被告に限らないとの指摘も少なくない。
職場の同僚だった男性は、被告は決して特異な人間ではなかったと証言する。仕事にも一生懸命で、アニメやゲームに熱中する普通の若者だったという。証言がすべてとは思わないが、事件の再発防止を考える一つのかぎとなるかもしれない。
監視カメラやパトロールの強化といったハード面に偏るのではなく、格差や孤独、ネット、仮想現実など社会が抱える問題と真摯に向き合っていく必要があるのだろう。
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秋葉原事件 死刑 居場所なき心のうつろ
中日新聞 社説2011年3月25日
死亡者七人、負傷者十人。東京・秋葉原で無差別に殺傷した加藤智大(ともひろ)被告に宣告されたのは、死刑だった。「居場所がない」というだけで、なぜ暴走したのか。その飛躍への不可解さは残る。
「自分の居場所はどこにもない。事件を起こさないと掲示板を取り返せないと思った」と加藤被告は公判で語った。携帯サイトの掲示板のことだ。
被告はしきりに書き込みをし、誰かからの返事を待つのが楽しみだった。だが、別人が被告になりすましたり、無意味な書き込みが横行する「荒らし」が頻発したりして、被告が書き込んでも、返事は掲示板に来なくなっていた。
だが、これが引き金になったにせよ、凶悪犯罪の動機らしき動機ではありえない。被告は原因の一つに「ものの考え方」を挙げた。
これは母親からの厳しい教育と切り離せない。九九の暗記ができないと、風呂の中に頭を入れられた。食事がチラシの上にまかれ、食べさせられたこともある。罰はエスカレートした。
言葉での反論を許されぬ被告は、不満を行動で示すようになった。「ものの考え方」とは、そのゆがみのことを指すようだ。
青森の名門高校に入学したものの、人生の歯車はきしむ。自動車関係の短大から、警備会社や運送会社などに勤めたが、どこも長続きしなかった。例えば上司が気に入らないと、辞めるという行動に出て、不満の気持ちを示すわけだ。キレやすいのもそのためだ。
自動車工場で働いたが、「派遣切り」の通告を受けた。後にその対象から外れたものの、「自分がパーツ扱いされている。腹立たしかった」と受け止めた。
「一人の食事ほど虚(むな)しいものはない」「いつも悪いのは俺だけ」などと書き込んだりした。孤独な心のうつろさがにじむ。事件当日は「秋葉原で人を殺します。みんな、さようなら」。最後の書き込みは「時間です」だった。
だが、実際には職場でも郷里にも友人は何人もいた。被告は「現実の方が大切なものがたくさんあったし、居場所もあった」と法廷で吐露していた。日曜日の歩行者天国で、アクセルでなく、なぜブレーキを踏まなかったのか。現実に居場所はあったのだ。気付くのがあまりに遅かった。
残虐、執拗(しつよう)、冷酷…。判決が並べた言葉に尽くせぬ非情な犯行は、「アキバ」の街を深い悲しみに沈めてしまった。 ◆秋葉原殺傷事件/弟の告白 亡くなられた方のご冥福と、傷を負った方の一日も早い回復を、心より祈って2010-01-28 | 秋葉原無差別殺傷事件 ◆秋葉原無差別殺傷事件 加藤智大被告と・・・2010-07-28 | 秋葉原無差別殺傷事件
〈来栖の独白2010/07/28〉
報道によれば、加藤智大被告は、事件の原因は三つ、だと述べる。〈記事は、中日新聞、毎日新聞から引用〉
「まず、わたしのものの考え方。次が掲示板の嫌がらせ。最後が掲示板だけに依存していたわたしの生活の在り方」である、と。
加藤被告は以前から「裁判は償いの意味もあるし、犯人として最低限やること。なぜ事件を起こしたのか、真相を明らかにすべく、話せることをすべて話したい。わたしが起こした事件と同じような事件が将来起こらないよう参考になることを話ができたらいい。事件の責任はすべてわたしにあると思う」と自分の裁判に対する姿勢を表明しており、今回の被告人質問への答えも、その趣旨に沿っている。
事件の直接の原因となったネット掲示板について、「ネット掲示板を使っていた。掲示板でわたしに成り済ます偽者や、荒らし行為や嫌がらせをする人が現れ、事件を起こしたことを報道を通して知ってもらおうと思った。嫌がらせをやめてほしいと言いたかったことが伝わると思った。現実は建前で、掲示板は本音。本音でものが言い合える関係が重要。掲示板は帰る場所。現実で本音でつきあえる人はいなかった。」という被告の風景は、寂しい。
この事件について、メディアでは、「ネット」や「派遣労働」が、問題として取り上げられた。確かに、そのような問題を当該事件は提起していた。
だが、私が目を向けずにいられなかったのは、被告の生育環境だった。極々身近では、勝田事件においても、その起きた主たる原因は彼の成育環境にあった。このように言うことは、被告(或は死刑囚)の親を鞭打つことで、哀れであるが、しかし、犯罪の根が生育環境に大きく起因するように私には思えてならない。
土浦8人殺傷事件公判においても、金川真大被告(=当時)の父親の証言から、同様のことを感じた。金川被告の父親は、息子を「被告人」と呼称して証言している。これは、加藤智大被告の母親と同じである。加藤被告の母親も、尋問で、息子を「被告」と呼称して意見を述べている。以下「7月8日に行った加藤被告の母親に対する証人尋問の要旨」から。 「私は、青森高校を卒業後、地元の金融機関に就職しました。そこで同僚だった被告の父親と知り合い、昭和55年に結婚しました。その後、主婦となり、57年に長男である被告が生まれ、その3歳下に次男が生まれました。その後、62年に夫の職場が五所川原市から青森市に変わり、その年に家を建てました」
「引っ越してからは、夫が毎日のように酒を飲んで帰るのが遅く、暴れたり、帰宅しないこともあり、私はイライラし、子供たちに八つ当たりすることがたびたびありました」
「たとえば、被告を屋根裏に閉じこめたり、窓から落とすまねをしたり、お尻をたたいたり。被告は食べるのが遅かったので、早く後片付けをしたくて、食事を茶碗からチラシの上にあけて食べさせたこともありました」
「もっとも、子供たちに強く当たったのは、私としてはあくまでしつけの一環と思っていました。単に不満のはけ口ではなく、なにがしか子供たちにも理由があったと思います。ただ、そこまでしなくても良かったとも思います」
「長男と次男に同じようなことをした記憶がありますが、どちらかというと長男である被告に強く当たりがちだったと思います」
「私が夫の前で怒ることもありましたが、夫は止めてくれませんでした」
「私は被告について、物覚えが早くて頭のいい子だと思っていましたが、一方で、あまり言うことを聞かない子だとも思っていました」
「私は被告に、北海道大学や東北大学を目指してほしいと思っていて、自分と同じ青森高校に行ってほしいと思っていました」
「被告は小学生のころは反抗するより、泣いていました。中学生になると物に当たって暴れたり、部屋の壁に穴を空けたりしました。中学2年生のときには、成績のことで被告と口論となり、顔を殴られたことがありました。私はそれ以降、被告とあまり口をきかなくなりました」
「中学3年のころ、被告がレーサーになりたいと言い出したので、危険だから絶対やめるように言いました。女の子とも交際していたようですが、成績にプラスにならないからやめるように言いました」
「私は、被告が昔から車が好きだったので、自分で進路を決めて良かったと思いました」
《加藤被告から平成18年8月に「これから死ぬから後はよろしく」と突然電話がかかってきたという》
「私は、借金があると言っていたので、私が返してあげるから、必ず帰ってくるように言いました。それと、私が辛くあたったことも原因の一つだと思い、謝るから帰ってきなさいとも言いました」
「その後、被告は『精神科に行きたい』といいましたが、あまり意味がないと思ったので、そうアドバイスし、結局行きませんでした」
「私は被告がなぜ今回の事件を起こしたのか分かりません。被害者や遺族の方には申し訳ないと思いますが、経済的な損害賠償は不可能です。私は被告を見放すことはなく、できる範囲でこたえていきたいです」 このような親子関係をまえに、私は言葉を失う。加藤被告のほうからは、以下のような証言がなされている。(2010/07/27東京地裁 被告人質問から) 【母親との関係】
わたしは、何か伝えたいときに、言葉で伝えるのではなく、行動で示して周りに分かってもらおうとする。母親からの育てられ方が影響していたと思う。親を恨む気持ちはない。事件を起こすべきではなかったと思うし、後悔している。
わたしは食べるのが遅かったが、母親に新聞のチラシを床に敷き、その上に食べ物をひっくり返され、食べろと言われた。小学校中学年くらいのとき、何度も。屈辱的だった。
無理やり勉強させられていた。小学校低学年から「北海道大学工学部に行くように」と言われた。そのため青森高に行くのが当たり前という感じだったが、車関係の仕事をしたいと思っていた。現場に近い勉強がしたい、ペンより工具を持ちたいと。母親に話したことはない。
中学時代に母親を殴ったことがある。食事中に母親が怒り始めた。ほおをつねったり髪をつかんで頭を揺さぶられたりした。無視すると、ほうきで殴られ、反射的に手が出た。右手のグーで力いっぱい左のほおのあたりを殴った。汚い言葉でののしられた。悲しかった。
大学進学をやめ、自動車関係の短大に行くことにした。母親にはあきらめられていたと思う。挫折とは思っていない。勉強をしていないからついていけないのは当たり前。短大には失礼だが、無駄な2年。整備士の資格は取るつもりだったが、父親の口座に振り込まれた奨学金を父親が使ったので、アピールとして取ることをやめた。 生育環境・親子関係を事件の起きた主たる要因と観ることに、繰り返すが、私は親御さんへの苛酷を感じる。故宮崎勤死刑囚の父親(親族)の苛酷な晩年に痛ましさを禁じえないけれども、やはり犯罪の因って起きる元が生育環境にあるとの見方を捨てることができない。勝田清孝は、その人生の最後まで、父親にこだわり続けた。面会でも、会話の多くを父親との生活に割いた。子とは、親を慕ってなんと切ないものだろうと思わされた。手記の末尾に次のように述べる。 支離滅裂な拙文ですが、生き恥としての私の生い立ちをかいつまみしたためました。
被害者の霊に手を合わさずにいられない今の私には、嘘は断じて許されないことを念頭に、すべて直筆致しました。
とりわけ身勝手な振る舞いでさんざん親不孝を重ねた私は、自分に向けられた父の慈愛を見抜けずに反感ばかり募らせていたことを、実に済まない気持ちでいるのです。確かに父は寄り付き難い存在でしたが、人一倍自己に厳格で、律儀一遍の父でもあったのです。父への悪感情も隠さず数多くしたためましたが、父との確執は私の放逸な行動ゆえ起こるのであって金銭のみならずあらゆる面で苦労をかけ続けた私には、父を憎悪する資格などどこにも見当たらないのです。
また、公務員になった事を悔やみ、積もり積もった心のわだかまりを吐露すればするほど責任回避と受け取られてしまうのではないかと思いながらも、人生の進路を誤ったという正直な気持ちを切り離して悪業を思い起こすことは、どうしても真意を偽ってお話しするような気がしてならなかったのです。 ◆秋葉原通り魔事件と安田好弘著『死刑弁護人』2008-06-09 | 秋葉原無差別殺傷事件
安田好弘著『死刑弁護人 生きるという権利』講談社α文庫
p3〜
まえがき
いろいろな事件の裁判にかかわって、はっきりと感じることがある。
なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが「弱い人」たちなのである。
他方「強い人」たちは、その可能性が圧倒的に低くなる。
私のいう「強い人」とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。
そして「弱い人」とは、その反対の人、である。
私は、これまでの弁護士経験の中でそうした「弱い人」たちをたくさんみてきたし、そうした人たちの弁護を請けてきた。
それは、私が無条件に「弱い人」たちに共感を覚えるからだ。「同情」ではなく「思い入れ」と表現するほうがより正確かもしれない。要するに、肩入れせずにはいられないのだ。
どうしてそうなのか。自分でも正確なところはわからない。
大きな事件の容疑者として、連行されていく人の姿をみるたび、
「ああ、この人はもう一生娑婆にはでてこられないだろうな・・・」
と慨嘆する。その瞬間に、私の中で連行されていく人に対する強い共感が発生するのである。オウム真理教の、麻原彰晃さんのときもそうだった。
それまで私にとって麻原さんは、風貌にせよ、行動にせよ、すべてが嫌悪の対象でしかなかった。宗教家としての言動も怪しげにみえた。胡散臭いし、なにより不遜きわまりない。私自身とは、正反対の世界に住んでいる人だ、と感じていた。
それが、逮捕・連行の瞬間から変わった。その後、麻原さんの主任弁護人となり、彼と対話を繰り返すうち、麻原さんに対する認識はどんどん変わっていった。その内容は本書をお読みいただきたいし、私が今、あえて「麻原さん」と敬称をつける理由もそこにある。
麻原さんもやはり「弱い人」の一人であって、好むと好まざるとにかかわらず、犯罪の渦の中に巻き込まれていった。今の麻原さんは「意思」を失った状態だが(これも詳しくは本書をお読みいただきたい)、私には、それが残念でならない。麻原さんをそこまで追い込んでしまった責任の一端が私にある。
事件は貧困と裕福、安定と不安定、山の手と下町といった、環境の境目で起きることが多い。「強い人」はそうした境目に立ち入らなくてもじゅうぶん生活していくことができるし、そこからしっかり距離をとって生きていくことができるが、「弱い人」は事情がまったく異なる。個人的な不幸だけでなく、さまざまな社会的不幸が重なり合って、犯罪を起こし、あるいは、犯罪に巻き込まれていく。
ひとりの「極悪人」を指定してその人にすべての罪を着せてしまうだけでは、同じような犯罪が繰り返されるばかりだと思う。犯罪は、それを生み出す社会的・個人的背景に目を凝らさなければ、本当のところはみえてこない。その意味で、一個人を罰する刑罰、とりわけ死刑は、事件を抑止するより、むしろ拡大させていくと思う。
私はそうした理由などから、死刑という刑罰に反対し、死刑を求刑された被告人の弁護を手がけてきた。死刑事件の弁護人になりたがる弁護士など、そう多くはない。だからこそ、私がという思いもある。
麻原さんの弁護を経験してから、私自身が謂われなき罪に問われ、逮捕・起訴された。そういう意味では私自身が「弱い」側の人間である。しかし幸い多数の方々の協力もあり、1審では無罪を勝ち取ることができた。裁判所は検察の作り上げた「作文」を採用するのでなく、事実をきちんと読み込み、丁寧な判決文を書いてくれた。
多くの人が冤罪で苦しんでいる。その意味で、私は僥倖であった。
この国の司法がどこへ向かっているのか、私は今後も、それを監視しつづけていきたいと思っている。「弱い人」たちに、肩入れしつづけていきたいと思っている。(〜p5) ◆秋葉原事件加藤智大被告謝罪の手紙要旨「同様の事件が起きないよう(公判で)真実を明らかにしたい」2009-11-07 | 秋葉原無差別殺傷事件
常々「公判で事件の真実を明らかにすることが、義務」と加藤智大被告は言っていた。罪を認めてもいた。が、私の僅かな経験則は、事件の真相が正しく認定されることの困難を感じさせてもいる。
「困難」とともに、被告人の強い謝罪と悔悟の念が、上訴を断念させるのではないか。加藤被告のこれまでの佇まいを見ていて、そんな気がしてならない。控訴せず、1審で確定させてしまうのではないだろうか。死刑を心から受け入れている。そんな気がしてならない。
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東京・秋葉原殺傷:加藤被告に死刑 判決要旨
東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、加藤被告に死刑を言い渡した東京地裁判決の要旨は次の通り。
《責任能力》被告は事件を計画し準備を行い、計画通りに実行しており、意識障害があったと疑わせる事情は認められない。被告は携帯電話の掲示板上での嫌がらせをやめてほしかったと動機を供述するが、周囲に対する不満や強い孤独感などがあったと思われる。性格やものの考え方なども総合すれば動機は十分了解可能である。
被告は事件以前にも自分の意思を暴力的または自暴自棄的な行動で示そうとしたことが度々あった。事件は被告の本来の性格傾向を基盤としたものと理解することができる。被告は事件前に3回もしゅん巡しているし、逮捕後は警察官と話して涙を流した。一連の経過をみれば、被告の善悪の判断能力や行動制御能力に疑問を差し挟む余地はない。
《量刑の理由》事件の遠因には、成育過程で受けた母親による不適切な養育を主な原因とする被告の人格のゆがみがある。しかし、被告は事件当時25歳を過ぎていたし高校卒業後の生活状況も考慮すると、成育歴等が与えた影響は限定的で、刑事責任を大きく減じさせるものとは評価できない。
被告は審理の最終段階になって個々の被害者や遺族に向き合い、被害の深刻さに多少は思いを至らせている。被告なりの反省の姿勢をみてとることはできる。しかし、事件を思いついた発想の危険さ、犯行態様の残虐さ、次々と殺害行為を重ねた執拗(しつよう)さ、冷酷さは、いずれも被告の人格に根差したものであり、根深さや逸脱の大きさからみると更生は著しく困難であることが予想される。
現在28歳と比較的若く、前科前歴がないことや、反省の姿勢を考慮すると、更生可能性が全くないとはいえないが、これらの事情を総合しても、死刑を選択せざるを得ないとの結論に至った。
毎日新聞 2011年3月25日 東京朝刊
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東京・秋葉原殺傷:加藤被告に死刑 被害男性「何が真実だったのか」 内面見えぬまま
白昼の秋葉原を恐怖と混乱に陥れた加藤智大(ともひろ)被告(28)に極刑が言い渡された。法廷で謝罪の言葉を重ねる一方、心を閉ざすかのように親友や被害者の面会を拒絶してきた被告は、身動きしないまま判決を受け止めた。「何が真実だったのか」。事件を語り継いできた被害者の元タクシー運転手、湯浅洋さん(57)は判決後、やるせない思いを募らせた。
「この上なく重い刑です。理解できましたか」。24日午後3時過ぎ、東京地裁104号法廷。判決を読み終えた村山浩昭裁判長に問われると、加藤被告は「はい」と小さく答え、いつも通り傍聴席の被害者に向かって深々と一礼した。「死刑判決を受け入れる気持ちになっているのか」。湯浅さんはそう感じたが、被告の内面はうかがえなかった。
被害に遭った後、湯浅さんは事件を考える集会に参加した。若者たちが「加藤さん」と被告に共感を持つ様子が気になり、事件をもっと知りたいと思った。
被告は自身の3人の子供と同年代。被告に死刑を求めるのは「割り切れない」とも思うが「法の最高刑が死刑である以上、死をもって償うべき事件。死刑以外は考えられない」という。
10年1月から30回に及んだ公判の多くを傍聴した。無表情で淡々と話す被告の姿が印象に残った。「君の人となりが見えない」。今月、被告に手紙を出し、東京拘置所に2度足を運んだが、被告に拒否されて面会はかなわなかった。
被告に刺された右脇腹の約15センチの傷が今も時折うずく。しびれは一生消えないと医者に言われた。「分からないことがたくさんある。第2、第3の加藤被告を生まないために、いろんな人に考えてもらいたい。今後も経験を語り続け、加藤被告本人の話も聞きたい」。傷とともに歩み、事件を考え続けるつもりだ。
◇被告父「見守るしかない」
「何であんなことしたのか本人にも分かってないのでは……」。加藤被告の父親(52)は青森市内で7日「私らとしては見守るしかない」と心境を語った。被害者に対しては「ただただ申し訳ない」と沈痛な表情で謝罪した。
加藤被告は法廷で、事件の背景として「小さい頃の母の育て方が影響した」と語り、24日の判決も「母親の虐待とも言える養育によって人格にゆがみが生じた」と指摘した。
だが父親は被告の発言について「後付けの理由のように思う。よそさまと比べて教育がそれほど違っていたとは思いません」と述べた。自身は仕事で忙しく、被告の教育にほとんど関与しなかったといい「子供のことは妻がやると決めていて、口を出すのは良くないと思った。ただ、どこの家庭にもあることでは」と話した。
判決後の対応は「本人が決めること。私らがどうこう言う筋合いではありませんので」と言葉少なだった。被告は弁護人以外との面会に応じておらず、両親も事件後、本人に会っていないという。【伊藤直孝】毎日新聞 2011年3月25日 東京朝刊
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「秋葉原」判決 孤独と残虐 晴れぬ疑問
北海道新聞 社説(3月25日)
2008年6月に東京・秋葉原の歩行者天国で起きた無差別殺傷事件で、東京地裁は加藤智大(ともひろ)被告に死刑判決を言い渡した。
アキバと呼ばれる若者が集まる街に白昼トラックが突入、通行人らがナイフで次々と刺された。7人が死亡、10人がけがをした。
偶然その場に居合わせただけで突然、命を絶たれた被害者や遺族の無念はいかばかりか。判決が「人間性の感じられない残虐な犯行だ」と断じたのも当然だろう。
犯行の動機も社会に大きな衝撃を与えた。被告は日ごろから携帯電話サイトの掲示板を利用していた。自分の名前を使った投稿など嫌がらせがあり、それをやめさせるのに事件を起こした、などと述べている。
そんな理由で人を殺すとはにわかには信じがたい。理解できない。多くの人はそう感じるだろうが、社会がどう奇異に受け止めようが、それは彼にとっては真実なのだろう。
掲示板は自分が自分でいられる場所であり、帰れる場所だ。そこに書き込みで答えてくれる人は家族同然だ。被告はそうも述べている。
短大卒業後、派遣社員などで各地を転々とし、掲示板に仕事の不満などを書き込んでいたという。
本心を打ち明けられる唯一の相手が、家族でも友人でも職場の同僚でもないネット掲示板だった。現実社会とつながりが持てない孤独な若者像が浮かび上がる。
「幼少期に母親から虐待と思える不適切な養育を受け、他者と信頼関係を築くことができなくなった」
判決はそうした境遇が被告を掲示板に向かわせた一因とし、人間性にも触れた。だが、事件の全体像を明らかにするには、ネット社会や不安定な派遣労働などとの関係にも踏み込む必要があったのではないか。
被告は犯行当時25歳だった。ネットの普及と足並みをそろえるように育ってきた世代だ。IT化時代の典型的な若者と見る専門家もいる。
格差社会の広がりが、人と社会とのきずなを薄めていく。不安定な労働環境で追い詰められ、世の中と向き合わずにネット掲示板だけを居場所と感じる若者は、加藤被告に限らないとの指摘も少なくない。
職場の同僚だった男性は、被告は決して特異な人間ではなかったと証言する。仕事にも一生懸命で、アニメやゲームに熱中する普通の若者だったという。証言がすべてとは思わないが、事件の再発防止を考える一つのかぎとなるかもしれない。
監視カメラやパトロールの強化といったハード面に偏るのではなく、格差や孤独、ネット、仮想現実など社会が抱える問題と真摯に向き合っていく必要があるのだろう。
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秋葉原事件 死刑 居場所なき心のうつろ
中日新聞 社説2011年3月25日
死亡者七人、負傷者十人。東京・秋葉原で無差別に殺傷した加藤智大(ともひろ)被告に宣告されたのは、死刑だった。「居場所がない」というだけで、なぜ暴走したのか。その飛躍への不可解さは残る。
「自分の居場所はどこにもない。事件を起こさないと掲示板を取り返せないと思った」と加藤被告は公判で語った。携帯サイトの掲示板のことだ。
被告はしきりに書き込みをし、誰かからの返事を待つのが楽しみだった。だが、別人が被告になりすましたり、無意味な書き込みが横行する「荒らし」が頻発したりして、被告が書き込んでも、返事は掲示板に来なくなっていた。
だが、これが引き金になったにせよ、凶悪犯罪の動機らしき動機ではありえない。被告は原因の一つに「ものの考え方」を挙げた。
これは母親からの厳しい教育と切り離せない。九九の暗記ができないと、風呂の中に頭を入れられた。食事がチラシの上にまかれ、食べさせられたこともある。罰はエスカレートした。
言葉での反論を許されぬ被告は、不満を行動で示すようになった。「ものの考え方」とは、そのゆがみのことを指すようだ。
青森の名門高校に入学したものの、人生の歯車はきしむ。自動車関係の短大から、警備会社や運送会社などに勤めたが、どこも長続きしなかった。例えば上司が気に入らないと、辞めるという行動に出て、不満の気持ちを示すわけだ。キレやすいのもそのためだ。
自動車工場で働いたが、「派遣切り」の通告を受けた。後にその対象から外れたものの、「自分がパーツ扱いされている。腹立たしかった」と受け止めた。
「一人の食事ほど虚(むな)しいものはない」「いつも悪いのは俺だけ」などと書き込んだりした。孤独な心のうつろさがにじむ。事件当日は「秋葉原で人を殺します。みんな、さようなら」。最後の書き込みは「時間です」だった。
だが、実際には職場でも郷里にも友人は何人もいた。被告は「現実の方が大切なものがたくさんあったし、居場所もあった」と法廷で吐露していた。日曜日の歩行者天国で、アクセルでなく、なぜブレーキを踏まなかったのか。現実に居場所はあったのだ。気付くのがあまりに遅かった。
残虐、執拗(しつよう)、冷酷…。判決が並べた言葉に尽くせぬ非情な犯行は、「アキバ」の街を深い悲しみに沈めてしまった。 ◆秋葉原殺傷事件/弟の告白 亡くなられた方のご冥福と、傷を負った方の一日も早い回復を、心より祈って2010-01-28 | 秋葉原無差別殺傷事件 ◆秋葉原無差別殺傷事件 加藤智大被告と・・・2010-07-28 | 秋葉原無差別殺傷事件
〈来栖の独白2010/07/28〉
報道によれば、加藤智大被告は、事件の原因は三つ、だと述べる。〈記事は、中日新聞、毎日新聞から引用〉
「まず、わたしのものの考え方。次が掲示板の嫌がらせ。最後が掲示板だけに依存していたわたしの生活の在り方」である、と。
加藤被告は以前から「裁判は償いの意味もあるし、犯人として最低限やること。なぜ事件を起こしたのか、真相を明らかにすべく、話せることをすべて話したい。わたしが起こした事件と同じような事件が将来起こらないよう参考になることを話ができたらいい。事件の責任はすべてわたしにあると思う」と自分の裁判に対する姿勢を表明しており、今回の被告人質問への答えも、その趣旨に沿っている。
事件の直接の原因となったネット掲示板について、「ネット掲示板を使っていた。掲示板でわたしに成り済ます偽者や、荒らし行為や嫌がらせをする人が現れ、事件を起こしたことを報道を通して知ってもらおうと思った。嫌がらせをやめてほしいと言いたかったことが伝わると思った。現実は建前で、掲示板は本音。本音でものが言い合える関係が重要。掲示板は帰る場所。現実で本音でつきあえる人はいなかった。」という被告の風景は、寂しい。
この事件について、メディアでは、「ネット」や「派遣労働」が、問題として取り上げられた。確かに、そのような問題を当該事件は提起していた。
だが、私が目を向けずにいられなかったのは、被告の生育環境だった。極々身近では、勝田事件においても、その起きた主たる原因は彼の成育環境にあった。このように言うことは、被告(或は死刑囚)の親を鞭打つことで、哀れであるが、しかし、犯罪の根が生育環境に大きく起因するように私には思えてならない。
土浦8人殺傷事件公判においても、金川真大被告(=当時)の父親の証言から、同様のことを感じた。金川被告の父親は、息子を「被告人」と呼称して証言している。これは、加藤智大被告の母親と同じである。加藤被告の母親も、尋問で、息子を「被告」と呼称して意見を述べている。以下「7月8日に行った加藤被告の母親に対する証人尋問の要旨」から。 「私は、青森高校を卒業後、地元の金融機関に就職しました。そこで同僚だった被告の父親と知り合い、昭和55年に結婚しました。その後、主婦となり、57年に長男である被告が生まれ、その3歳下に次男が生まれました。その後、62年に夫の職場が五所川原市から青森市に変わり、その年に家を建てました」
「引っ越してからは、夫が毎日のように酒を飲んで帰るのが遅く、暴れたり、帰宅しないこともあり、私はイライラし、子供たちに八つ当たりすることがたびたびありました」
「たとえば、被告を屋根裏に閉じこめたり、窓から落とすまねをしたり、お尻をたたいたり。被告は食べるのが遅かったので、早く後片付けをしたくて、食事を茶碗からチラシの上にあけて食べさせたこともありました」
「もっとも、子供たちに強く当たったのは、私としてはあくまでしつけの一環と思っていました。単に不満のはけ口ではなく、なにがしか子供たちにも理由があったと思います。ただ、そこまでしなくても良かったとも思います」
「長男と次男に同じようなことをした記憶がありますが、どちらかというと長男である被告に強く当たりがちだったと思います」
「私が夫の前で怒ることもありましたが、夫は止めてくれませんでした」
「私は被告について、物覚えが早くて頭のいい子だと思っていましたが、一方で、あまり言うことを聞かない子だとも思っていました」
「私は被告に、北海道大学や東北大学を目指してほしいと思っていて、自分と同じ青森高校に行ってほしいと思っていました」
「被告は小学生のころは反抗するより、泣いていました。中学生になると物に当たって暴れたり、部屋の壁に穴を空けたりしました。中学2年生のときには、成績のことで被告と口論となり、顔を殴られたことがありました。私はそれ以降、被告とあまり口をきかなくなりました」
「中学3年のころ、被告がレーサーになりたいと言い出したので、危険だから絶対やめるように言いました。女の子とも交際していたようですが、成績にプラスにならないからやめるように言いました」
「私は、被告が昔から車が好きだったので、自分で進路を決めて良かったと思いました」
《加藤被告から平成18年8月に「これから死ぬから後はよろしく」と突然電話がかかってきたという》
「私は、借金があると言っていたので、私が返してあげるから、必ず帰ってくるように言いました。それと、私が辛くあたったことも原因の一つだと思い、謝るから帰ってきなさいとも言いました」
「その後、被告は『精神科に行きたい』といいましたが、あまり意味がないと思ったので、そうアドバイスし、結局行きませんでした」
「私は被告がなぜ今回の事件を起こしたのか分かりません。被害者や遺族の方には申し訳ないと思いますが、経済的な損害賠償は不可能です。私は被告を見放すことはなく、できる範囲でこたえていきたいです」 このような親子関係をまえに、私は言葉を失う。加藤被告のほうからは、以下のような証言がなされている。(2010/07/27東京地裁 被告人質問から) 【母親との関係】
わたしは、何か伝えたいときに、言葉で伝えるのではなく、行動で示して周りに分かってもらおうとする。母親からの育てられ方が影響していたと思う。親を恨む気持ちはない。事件を起こすべきではなかったと思うし、後悔している。
わたしは食べるのが遅かったが、母親に新聞のチラシを床に敷き、その上に食べ物をひっくり返され、食べろと言われた。小学校中学年くらいのとき、何度も。屈辱的だった。
無理やり勉強させられていた。小学校低学年から「北海道大学工学部に行くように」と言われた。そのため青森高に行くのが当たり前という感じだったが、車関係の仕事をしたいと思っていた。現場に近い勉強がしたい、ペンより工具を持ちたいと。母親に話したことはない。
中学時代に母親を殴ったことがある。食事中に母親が怒り始めた。ほおをつねったり髪をつかんで頭を揺さぶられたりした。無視すると、ほうきで殴られ、反射的に手が出た。右手のグーで力いっぱい左のほおのあたりを殴った。汚い言葉でののしられた。悲しかった。
大学進学をやめ、自動車関係の短大に行くことにした。母親にはあきらめられていたと思う。挫折とは思っていない。勉強をしていないからついていけないのは当たり前。短大には失礼だが、無駄な2年。整備士の資格は取るつもりだったが、父親の口座に振り込まれた奨学金を父親が使ったので、アピールとして取ることをやめた。 生育環境・親子関係を事件の起きた主たる要因と観ることに、繰り返すが、私は親御さんへの苛酷を感じる。故宮崎勤死刑囚の父親(親族)の苛酷な晩年に痛ましさを禁じえないけれども、やはり犯罪の因って起きる元が生育環境にあるとの見方を捨てることができない。勝田清孝は、その人生の最後まで、父親にこだわり続けた。面会でも、会話の多くを父親との生活に割いた。子とは、親を慕ってなんと切ないものだろうと思わされた。手記の末尾に次のように述べる。 支離滅裂な拙文ですが、生き恥としての私の生い立ちをかいつまみしたためました。
被害者の霊に手を合わさずにいられない今の私には、嘘は断じて許されないことを念頭に、すべて直筆致しました。
とりわけ身勝手な振る舞いでさんざん親不孝を重ねた私は、自分に向けられた父の慈愛を見抜けずに反感ばかり募らせていたことを、実に済まない気持ちでいるのです。確かに父は寄り付き難い存在でしたが、人一倍自己に厳格で、律儀一遍の父でもあったのです。父への悪感情も隠さず数多くしたためましたが、父との確執は私の放逸な行動ゆえ起こるのであって金銭のみならずあらゆる面で苦労をかけ続けた私には、父を憎悪する資格などどこにも見当たらないのです。
また、公務員になった事を悔やみ、積もり積もった心のわだかまりを吐露すればするほど責任回避と受け取られてしまうのではないかと思いながらも、人生の進路を誤ったという正直な気持ちを切り離して悪業を思い起こすことは、どうしても真意を偽ってお話しするような気がしてならなかったのです。 ◆秋葉原通り魔事件と安田好弘著『死刑弁護人』2008-06-09 | 秋葉原無差別殺傷事件
安田好弘著『死刑弁護人 生きるという権利』講談社α文庫
p3〜
まえがき
いろいろな事件の裁判にかかわって、はっきりと感じることがある。
なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが「弱い人」たちなのである。
他方「強い人」たちは、その可能性が圧倒的に低くなる。
私のいう「強い人」とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。
そして「弱い人」とは、その反対の人、である。
私は、これまでの弁護士経験の中でそうした「弱い人」たちをたくさんみてきたし、そうした人たちの弁護を請けてきた。
それは、私が無条件に「弱い人」たちに共感を覚えるからだ。「同情」ではなく「思い入れ」と表現するほうがより正確かもしれない。要するに、肩入れせずにはいられないのだ。
どうしてそうなのか。自分でも正確なところはわからない。
大きな事件の容疑者として、連行されていく人の姿をみるたび、
「ああ、この人はもう一生娑婆にはでてこられないだろうな・・・」
と慨嘆する。その瞬間に、私の中で連行されていく人に対する強い共感が発生するのである。オウム真理教の、麻原彰晃さんのときもそうだった。
それまで私にとって麻原さんは、風貌にせよ、行動にせよ、すべてが嫌悪の対象でしかなかった。宗教家としての言動も怪しげにみえた。胡散臭いし、なにより不遜きわまりない。私自身とは、正反対の世界に住んでいる人だ、と感じていた。
それが、逮捕・連行の瞬間から変わった。その後、麻原さんの主任弁護人となり、彼と対話を繰り返すうち、麻原さんに対する認識はどんどん変わっていった。その内容は本書をお読みいただきたいし、私が今、あえて「麻原さん」と敬称をつける理由もそこにある。
麻原さんもやはり「弱い人」の一人であって、好むと好まざるとにかかわらず、犯罪の渦の中に巻き込まれていった。今の麻原さんは「意思」を失った状態だが(これも詳しくは本書をお読みいただきたい)、私には、それが残念でならない。麻原さんをそこまで追い込んでしまった責任の一端が私にある。
事件は貧困と裕福、安定と不安定、山の手と下町といった、環境の境目で起きることが多い。「強い人」はそうした境目に立ち入らなくてもじゅうぶん生活していくことができるし、そこからしっかり距離をとって生きていくことができるが、「弱い人」は事情がまったく異なる。個人的な不幸だけでなく、さまざまな社会的不幸が重なり合って、犯罪を起こし、あるいは、犯罪に巻き込まれていく。
ひとりの「極悪人」を指定してその人にすべての罪を着せてしまうだけでは、同じような犯罪が繰り返されるばかりだと思う。犯罪は、それを生み出す社会的・個人的背景に目を凝らさなければ、本当のところはみえてこない。その意味で、一個人を罰する刑罰、とりわけ死刑は、事件を抑止するより、むしろ拡大させていくと思う。
私はそうした理由などから、死刑という刑罰に反対し、死刑を求刑された被告人の弁護を手がけてきた。死刑事件の弁護人になりたがる弁護士など、そう多くはない。だからこそ、私がという思いもある。
麻原さんの弁護を経験してから、私自身が謂われなき罪に問われ、逮捕・起訴された。そういう意味では私自身が「弱い」側の人間である。しかし幸い多数の方々の協力もあり、1審では無罪を勝ち取ることができた。裁判所は検察の作り上げた「作文」を採用するのでなく、事実をきちんと読み込み、丁寧な判決文を書いてくれた。
多くの人が冤罪で苦しんでいる。その意味で、私は僥倖であった。
この国の司法がどこへ向かっているのか、私は今後も、それを監視しつづけていきたいと思っている。「弱い人」たちに、肩入れしつづけていきたいと思っている。(〜p5) ◆秋葉原事件加藤智大被告謝罪の手紙要旨「同様の事件が起きないよう(公判で)真実を明らかにしたい」2009-11-07 | 秋葉原無差別殺傷事件