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絞首刑は憲法36条が禁じる「残虐な刑罰」に当たるのか/ くじ引きで選ばれた国民が、刑そのものを執行する

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絞首刑「合憲」 裁判争点で終わらせずに
2011年11月11日 11:17カテゴリー:コラム> 社説
 絞首刑は憲法36条が絶対に禁じるとしている「残虐な刑罰」に当たるのか。
 「絞首刑の残虐性」の憲法判断が争点となった大阪地裁の裁判員裁判で先週、一つの判断が示された。
 判決で裁判長は「絞首刑が最善の方法かどうかは議論はあるが、死刑は生命を奪うことによって罪を償わせる制度で、ある程度の苦痛とむごたらしさは避け難い」と述べ、絞首刑を合憲と判断し、被告に死刑を言い渡した。
 裁判員法は、憲法判断など法令解釈は「裁判官の合議による」と定めている。この裁判では、絞首刑の憲法判断が死刑選択の適否判断の争点となったため、裁判長が裁判員にも任意で意見を求めた。
 死刑の合憲性について、市民から選ばれた裁判員の意見を反映した初の司法判断である。死刑制度の是非をめぐる議論に一石を投じ、今後の議論の行方に影響を与える判決になるだろう。
 絞首刑「合憲」判断が示されたのは、2009年に大阪市で起きたパチンコ店放火殺人事件で、5人を死亡させ10人に重軽傷を負わせたとして、殺人罪などに問われた被告に対する判決である。
 裁判員裁判の死刑判決は、これで10件目となる。死刑が国民に身近な制度になったともいえる。裁判員に選ばれれば、誰もが死刑の適否判断を迫られる当事者になる可能性があるからだ。
 死刑とは、どんな刑罰で、どう告知され、どういう方法で行われるのか。国民の一人一人が現実を知ったうえで、死刑について多様な視点から熟考することが求められているともいえよう。
 異論はあるかもしれないが、そんな時代だからこそ、刑執行の実態をタブー視せずに、制度の存廃を含めた死刑制度の在り方をめぐる幅広い国民的議論が必要だと私たちは考える。
 今回の裁判は、その契機となり得る場だったが、争点が絞首刑の残虐性に絞られたため、論点が矮小(わいしょう)化され、死刑制度の在り方論にまで深まらなかった。
 絞首刑の違憲性立証に努めた弁護側に対し、検察側は「ガス殺や電気殺に比べて絞首刑を残虐とする理由はない」とした1955年の最高裁判決で「合憲は決着済み」として、反証を避けた。
 残念ではあるが、起訴内容を立証する場である個別事件の法廷で、死刑制度の是非や刑執行の合憲性を論じるのは限界があるのかもしれない。
 だからこそ、法務当局は不透明な部分が多い刑執行の実態に関する情報を可能な限り開示し、国会などでの議論に供すべきだろう。具体的な情報があってこそ制度の是非をめぐる議論は深まる。
 共同通信の昨年の世論調査によると、国民の75%は死刑を容認している。とはいえ、幅広い議論を通して国民が死刑制度の実態を知っておくことは必要だろう。今後も裁判員制度を維持していくのならば、死刑をめぐる議論を一裁判の争点で終わらせてはなるまい。=2011/11/11付 西日本新聞朝刊=
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「残虐」とは 絞首刑へ元検事の問い元検事の土本武司・筑波大学名誉教授
 日本で死刑の執行方法として採用されている絞首刑は、憲法の禁じる「残虐な刑罰」にあたるのではないか――。元検事が大阪の法廷で問題提起をし、死刑論議に一石を投じた。残虐とは何なのか。
 法廷で証言に立った元検事は、筑波大名誉教授で元最高検検事の土本武司。死刑を続けるかやめるかの論議では、存続派の論客として知られる。だが絞首刑については、検事時代に執行に立ち会った経験を語りつつ、「残虐な刑罰に限りなく近い」と語った。「死刑自体は違憲ではないが、絞首刑は違憲の疑いが強い」という立場だ。証言後、詳しく話を聞いた。
■薬物注射を検討すべき
 憲法は死刑自体を禁じてはいない、と土本は判断する。憲法31条に「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ」ない、とあるからだ。だが、「残虐な刑罰」を禁じた憲法36条がある。残虐とは何か。土本は3点から検討した。(1)不必要な精神的・肉体的苦痛を与えるか(2)肉体に損傷を与えるか(3)一般人の心情で「むごたらしい」との印象を受けるか。
 (1)と(2)については、「死刑囚は一瞬で意識を失い窒息する、と以前は思っていた。だが複数の研究で、数秒から数分間は意識を保つ可能性があること、首の内部組織が断裂したり首自体が切れたりする可能性があることが分かってきた」とした。
 (3)については、自身の体験を踏まえてこう語った。「後ろ手錠をされ、両脚をひざで縛られた死刑囚が、踏み板が外れると同時に自分の体重で落下し、首を基点にしてユラユラと揺れていた。あれを見てむごたらしいと思わない人は、正常な感覚ではない」
 代替策として、薬物注射による執行を検討すべきだとする。「意識を失わせる薬を注入し、次に筋弛緩(しかん)剤などを入れる。現在の科学力ならば、苦痛・損傷・むごたらしさを減らし、残虐性を薄めることは可能だ」
 死刑制度を維持している米国の各州では、薬物注射の採用が広がっているが、執行方法をめぐる議論はなお続いている。
■「法的に定義不可能」
 東京大学教授(法哲学)の井上達夫は、「憲法が残虐な刑罰を禁じる根拠が分かりにくい」と語る。
 そもそも残虐を法的に定義することは不可能だとも指摘する。「あまりに主観的な概念であり、『わいせつ』と同様、多数派の価値観を少数派に押しつける結果になりかねない。法に書きこむべき言葉ではない」
 井上はこうも話す。
 「仮に『誰も心が痛まない殺し方』があるとして、それで良心の呵責(かしゃく)なく死刑を進められる社会状況が来る方が、私は怖い」
 暴力論などで知られる評論家の芹沢俊介は、米国映画「チェンジリング」の絞首刑シーンが印象に残っている。被害者の母親が、執行を無表情に見つめていたからだ。「むごいと思われる行為が、むごいとは認識されずに進んでいた」
 それはどのような状況なのか。「一つの可能性は、怒りの感情などによって、むごさが求められているケースだ。怒りが大きくなるほど、求められるむごさの度合いも高まる」
 そういった事態に、憲法にいう「残虐」という言葉を投げかけてみることで、怒りと残虐志向の連鎖に第三者がブレーキをかけられる可能性がある、と芹沢は考える。「ある行為がどういう意味で残虐なのかを、様々な角度から具体的に考える足がかりになる」
 残虐とは何か。市民が死刑についての判断を迫られる裁判員時代の今、避けて通れない問いになりつつある。(塩倉裕)
    ◇
■憲法36条
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
■大阪の裁判
 絞首刑が違憲かどうかが問題になったのは、大阪市のパチンコ店で5人が死亡した放火殺人事件。裁判員裁判では初めて死刑の違憲性が争われた場でもあった。大阪地裁は先月31日の判決で、「絞首刑は前近代的なところがあるが、残虐な刑罰とはいえない」などとして、「合憲」と判断。被告に死刑を言い渡した。asahi.com2011年11月11日11時44分
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中公新書『死刑囚の記録』
 ただ、私自身の結論だけは、はっきり書いておきたい。それは死刑が残虐な刑罰であり、このような刑罰は禁止すべきだということである。(中略)
 死刑の方法は絞首刑である。刑場の構造は、いわゆる“地下絞架式”であって、死刑囚を刑壇の上に立たせ、絞縄を首にかけ、ハンドルをひくと、刑壇が落下し、身体が垂れさがる仕掛けになっている。つまり、死刑囚は、穴から床の下に落下しながら首を絞められて殺されるわけである。実際の死刑の模様を私は自分の小説のなかに忠実に描いておいた。
 死刑が残虐な刑罰ではないかという従来の意見は、絞首の瞬間に受刑者がうける肉体的精神的苦痛が大きくはないという事実を論拠にしている。
 たとえば1948年3月12日の最高裁判所大法廷の、例の「生命は尊貴である。一人の生命は全地球より重い」と大上段に振りあげた判決は、「その執行の方法などがその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬ」として、絞首刑は、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで」などとちがうから、残虐ではないと結論している。すなわち、絞首の方法だけにしか注目していない。
 また、1959年11月25日の古畑種基鑑定は、絞首刑は、頸をしめられたとき直ちに意識を失っていると思われるので苦痛を感じないと推定している。これは苦痛がない以上、残虐な刑罰ではないという論旨へと発展する結論であった。
 しかし、私が本書でのべたように死刑の苦痛の最たるものは、死刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。これが、残虐な刑罰でなくて何であろう。
 なお本書にあげた多くの死刑囚の、その後の運命について知りたく、法務省に問い合わせたところ刑の執行は秘密事項で教えられないとのことであった。裁判を公開の場で行い、おおっぴらに断罪しておきながら、断罪の結果を国民の目から隠ぺいする、この不合理も、つきつめてみれば、国が死刑という殺人制度を恥じているせいではなかろうか。
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論壇時評【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】(抜粋)
 日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。(大澤真幸 京都大学大学院教授)
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死刑とは何か〜刑場の周縁から


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