TPPから始まる茨の道
安藤 毅 日経ビジネス記者
2011年11月22日(火)
TPP亡国論に屈せず、交渉参加方針を表明した野田佳彦首相。日本は苦境を脱するスタートラインに立ったが、前途には茨の道が待ち受ける。決断を「開国」の成果につなげるための国内体制の整備や農業対策が急務だ。
国内で渦巻くTPP(環太平洋経済連携協定)反対論に配慮しながらも、交渉参加表明に踏み込んだ野田佳彦首相。その決断を引っ提げて臨んだアジア太平洋経済協力会議(APEC)は、各国の利害が交錯する国際交渉の現実を痛感する場になったに違いない。
象徴的なのが、米国の反応だ。バラク・オバマ大統領は「日本の決断を歓迎する。協議を通じて日米で協力していきたい」と野田首相を称えてみせた。
しかし、お膝元の米民主党議員らが米通商代表部(USTR)に「日本の参加は、TPP交渉に劇的な複雑さをもたらす」とする書簡を送付。「日本が閉ざしてきた市場を開放するのか、高い水準の自由化に対応するのかを見極めることが重要」と、鋭いジャブを繰り出した。
*ジャブを繰り出す米国
これにUSTRのロン・カーク代表も呼応。APEC会場での記者会見で、日本がTPP交渉に参加する際の事前協議では、牛肉の輸入制限や郵便貯金、簡易保険の業務範囲拡大の是非、自動車の貿易障壁を議題に取り上げる意向を表明した。TPP交渉前進の条件として、日本の対応に高いハードルを設定しようという思惑がにじむ。
こうした米側の姿勢について、日本の外務省幹部は「想定はしていたが、国内の激しい反発を振り切って交渉参加を決断した野田首相が、冷や水を浴びせられた印象を国民が受けたとしたら、大きなマイナスだ」とこぼす。
こうなると、与野党のTPP交渉反対派も黙っていない。
民主党議員からは「守るべきところは守る、とした野田首相の発言の根底は揺らいだ」などと批判が噴出。自民党の田野瀬良太郎・幹事長代行はNHK番組で「政府が交渉の中身について説明できず、国民の信用を得られないならば、内閣不信任決議案や、参院での首相問責決議案の提出も視野に入る」と強調してみせた。
内憂外患で、早々と前途多難の様相を呈してきたTPP交渉。しかし、貿易立国としての再興に未来をかけるしかない日本に、立ち止まる余裕はない。
そもそも交渉参加表明時期は、1年も遅れている。ようやくスタート台に立った今、急ぐべきなのは、アジア太平洋地域に有益な自由化ルール作りを主導し、日本の考えを主張できるための交渉体制や国内調整の環境整備だ。
各国の通商戦略に詳しい早稲田大学の浦田秀次郎教授は「政府はまず、日本の将来像を国民に具体的に説明し、そのためにTPPがどんな効果をもたらすのかを、いま一度、丁寧に説明すべきだ」と指摘する。
野田首相はTPP参加の意義について、今月11日の記者会見で「貿易立国として築いた現在の豊かさを次世代に引き継ぐには、アジア・太平洋地域の成長力を取り入れていかねばならない」とさらりと説明しただけだった。
経済成長のためにFTA(自由貿易協定)推進を明確に打ち出し、専門の行政機関も立ち上げ、国民への広報活動を積極的に実施する。こんな韓国との取り組みの差は歴然としている。
浦田教授はそのうえで、交渉の進め方や情報開示についても、改善すべきと説く。「米国ではホームページでTPPの議論内容について情報公開している。国民の信頼を得たり、TPPへの理解を深めてもらうには、こうした対応が不可欠だ」と提案する。
もちろん、外交交渉の詳細を公にするには一定の限度がある。それでも、これだけ関心が高まり、国内を二分するようなテーマになったTPP交渉だけに、政府はこれまで以上に丁寧な対応が求められるだろう。それは、視野に入ってきた日中韓や欧州連合(EU)とのEPA(経済連携協定)交渉の試金石にもなる。
次に大きな課題となるのが、機能的な交渉体制の構築だ。
TPP交渉では、これまで日本が行ってきたFTA・EPA締結交渉と比較にならないほど幅広い分野が対象になり、大幅な自由化が求められる。その中で、日本の国益を守る観点から、関税撤廃の例外品目を確保したり、知的財産や投資など日本にとって有利なルールを盛り込んでいくといった高度な交渉戦略が問われている。
守るべきところは守りつつ、主張すべきところは主張する。「言うは易し、行うは難し」の交渉を実現するには、分野ごとに他国と共闘する戦略や、迅速な決断を可能にする政府・与野党の体制構築が急務だ。
米連邦議会の承認作業などが必要なため、日本の実質的な交渉参加は早くとも来春と見られ、準備時間はある。首相官邸のコントロールの下、実務にたけた各省の交渉担当者をフル活用する縦割りを超えた交渉体制や、与党内、与野党間の調整・協議を円滑に進めるシステムをどう整備するのか。それに向き合うのが、政治の責任だろう。
*カギ握る戸別所得補償改革
そして、交渉最大のカギとなるのが、国内農業対策だ。
野田首相は記者会見で、医療制度などとともに農村を守り抜くと明言。10月にまとめた農林漁業の再生基本方針に基づき、農地の大規模化を通じ経営効率の向上を後押しする意向を示した。同時に、農業団体や農水関係議員に配慮し、必要な予算措置を行う考えも強調してみせた。
政府関係者によると、この首相発言を受け、政府・与党内ではコメの一部開放に伴うウルグアイ・ラウンド対策費として投入された6兆円の半分程度の3兆円規模を、今後5年間に手当てする構想が浮上してきたという。
ある民主党議員は「戸別所得補償の対象と金額を拡充したり、結果的に農業団体も損をしないような落としどころがささやかれている」と打ち明ける。
しかし、ほぼすべての農家に補助金を支給する現状の戸別所得補償制度は小規模農家の温存につながり、大規模化・集約化を目指す政府方針と矛盾する。仮に財政投入額を上積みするにしても、効果を発揮するには、支給対象を一定の規模の農家や農業法人に絞り込むなどの改革が欠かせない。
農業の生産性向上には、農地の集積がしやすいような土地利用規制の見直しや、農業への企業参入の促進も必要だ。東京大学の本間正義教授は「産業界と農業界の対立を超え、経営基盤の確立、マーケティング手法の導入、異業種の共同による産業集積といった取り組みを進めれば、魅力ある産業としての農業の復興は夢物語でなくなる」と指摘する。
国内農業の何を守り、どんな強みを伸ばしていくのか。農業界の不信を緩和し、国民の理解を深めるには、農業と農村の未来図に関する骨太の国民的議論が必要との声も高まっている。
TPP交渉参加の意義は、通商政策の出遅れを挽回するだけではない。手つかずのままだった日本の成長の阻害要因の改革に真正面から取り組む好機でもある。与野党の垣根を超えた建設的な国内議論が実現すれば、消費増税など次に控える重要課題に政治が決断できる道筋も見えてくる。
日経ビジネス 2011年11月21日号10ページより
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