五木寛之著『親鸞』328回 2011/12/03 Sat.
〈末尾のみ転写〉
「では、妻のスズが申していたことをお話しいたします。念仏をとなえるのは、自力の行ではない。念仏というのは阿弥陀如来からいただいたものであるといつも教わっているのだが、いまひとつ、その意味がわからない、と」
平次郎の言葉に、親鸞は微笑してうなずいた。
五木寛之著『親鸞』329回 2011/12/04 Sun.
「もし嵐で船が難破したとする。逆巻く波の夜の海で、おぼれそうになっているときに、どこからか声がきこえた。すくいにきたぞ!おーい、どこにいるのだー、と、その声はよんでいる。さて、そなたならどうする、平次郎どの」
親鸞にきかれて、平次郎はこたえた。
「ここにいるぞ!、おーい、ここだ、ここだ、助けてくれー、と声をあげるでしょう」
「そうだ。真っ暗な海にきこえてくるその声こそ、阿弥陀如来がわれらに呼びかける声。その声に応じて、ここにおります、阿弥陀さま! とこたえるよろこびの声が南無阿弥陀仏の念仏ではあるまいか。この末世にわれらが生きるということは、春の海をすいすいと渡るようにはいかない。わたし自身も、これまで何度となく荒れ狂う海の波間で、自分の信心を見失いそうになったことがある。(略)それが他力の念仏であろう。(略)いただいた念仏、というのは、そういうことではないだろうか」
「では、わたくしどもに呼びかけられる阿弥陀如来のその声は、いつでも、だれにでも、きこえるものなのでしょうか」
(略)
「いや」
親鸞は首をふった。
「いつでも、だれにでも、というわけにはいくまい。波間にただようわれらをすくわんとしてあらわれたのが、阿弥陀如来という仏だと、一筋に固く信じられるかどうかにかかっているのだ。信じれば、その声がきこえる。信じなければきこえないだろう」
「では、まず、信があって、そして念仏が生まれるということでございますか」
と、頼重房が鋭い声できいた。
「そう思う」
と、親鸞はいった。
「しかし、目に見えないものを信じるということは、まことにむずかしい。しかも、いったん信をえても、それはしばしば揺らぐものだ。そのとき念仏が、見失いそうになった信を呼びもどしてくれるのではないか。信が念仏を生み、念仏が信をささえるのだ。いまのわたしには、それしかいえない」
五木寛之著『親鸞』330回 2011/12/05 Mon.
〈前段 略〉
「その、本当の信とやらを得るためには、どうすればいいのでございますか」
〈略〉
「いまのわたしに、わかっていることは、まことの信を得るために自分自身をみつめることの大事さだ。このわが身の愚かさ、弱さ、頼りなさ、それをとことんみつめて納得すること。それができれば、おのずと目に見えない大きな力に身をゆだねる気持ちもおきてくるのではあるまいか」
〈後半 略〉
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〈来栖の独白〉
日々、愉しみにして読んできた『親鸞』。おそらく、今月で完結するのだろう。そんな気がする。一昨昨日(12月3日)、中日新聞でケネス・田中さんの「欧米人を魅了する仏教の秘密 信じる宗教から目覚める宗教へ」を読んだ。以下のような箇所があり、新鮮に映った。
“キリスト教から仏教へ改宗した人たちに尋ねると、キリストの復活を「信じる」ことより、煩悩による誤った見方を是正して自らが「目覚める」ことを究極の目的にする仏教の考え方の方が魅力的だと答える人が実に多い。”
正直なところ、私のような不信心なカトリック信徒には、イエスの復活は、なかなかに信じ難い。そのような私であるが、イエスに強く惹かれてきた。イエスの言葉(みことば)に支えられてきた。イエスのみことばに則って、進む道を決断したことも幾度もあった。
親鸞(五木寛之氏)は云う、「いまのわたしに、わかっていることは、まことの信を得るために自分自身をみつめることの大事さだ」と。ケネス・田中氏によって、考えてみる。イエスも、私たちに「あなたは誰ですか。何を見て生きていますか」と問うているのではないかと。
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◆欧米人を魅了する仏教の秘密 信じる宗教から目覚める宗教へ2011-12-04 | 仏教・・・/親鸞/五木寛之
2011年12月3日Sat.中日新聞夕刊 ケネス・田中
十月に亡くなった、アップル社の創立者スティーブ・ジョブズ氏は、仏教に深くひかれていた。曹洞宗の知野弘文老師に師事し、長年座禅に取り組んでいた。老師に自分の結婚式の司祭を頼んだそうで、いかに仏教に魅了されていたかがうかがえる。
氏にとどまらない。米国には、日本で衆知の有名人に仏教徒が多い。俳優リチャード・ギア、歌手ティーナ・ターナー、ゴルフ選手タイガー・ウッズの各氏らだ。2006年の選挙では、米国の国会議員として初めて2人の仏教徒が登場した。その1人は南部ジョージア州の黒人政治家である。
有名人だけではない。現在、米国の仏教徒は約3百万人を数え、全米人口の1%に当たる。ヨーロッパでも約100万人いる。中でも最も多くの仏教徒があらゆる宗派の下に集まっているのがロサンゼルスで、百近い宗派が軒を並べ共存している。
米国の仏教徒の内訳は、もともとのアジア系仏教徒と、成人して改宗した仏教徒が約半数ずつを占める。改宗者をさらに分類すると、約10万人が創価学会、残る約140万人が禅か、上座部(タイ、ミャンマー、カンボジアなどの仏教)か、チベット仏教に所属している。
この他、自分が「仏教徒」と断言はせずに仏教に通じ、真摯にそれを実践する「仏教同調者」もかなりの数に上る。(略)
これに加え、「仏教に何らかの重要な影響を受けた」と答えた人が、07年調査で約2千5百万人いる。これらを合計すれば、米国人口の10%、約3千万人に及び、驚くべき数の人が仏教の影響を受けていることになる。
もちろん、キリスト教徒と比べれば、仏教徒の数はまだマイナーだ。しかし、伸び率だけに注目するなら、キリスト教徒をはるかに上回る。(略)この勢いでいけば、数十年後には、もっか米国第2位の座にいるユダヤ教徒を追い抜き、仏教が第2位の宗教となる可能性が高い。
では、彼らが仏教に魅了される原因はどこにあるのか。ダライ・ラマの絶大なる世界的人気や、米国の場合、65年の移民法改正によりアジア諸国から多くの仏教指導者が渡米してきたことなどが挙げられる。
だが、私は、最大の理由は仏教の本質にあるとみる。彼らは、仏教を「信じる宗教」(religion of faith)ではなく、「目覚める宗教」(religion of awakening)と、とらえているのだ。
キリスト教から仏教へ改宗した人たちに尋ねると、キリストの復活を「信じる」ことより、煩悩による誤った見方を是正して自らが「目覚める」ことを究極の目的にする仏教の考え方の方が魅力的だと答える人が実に多い。キリスト教などには、立派な教義があるが、その教えを体験する方法が明確ではないのに対し、仏教は誰もが日々実践できる瞑想などを通して実際に教えを体験できることにひかれると話す。
どの宗教でも経典を信じ指導者を信頼することは大事である。仏教徒にもこれは必須ではあるが、仏教徒の最終目的は信じた後の「目覚め」である。つまりブッダ(目覚めた者)になることこそが最重要なのだ。欧米ではジョブズ氏のように多くがこの「目覚める宗教」に魅了されている。ただ単に教えのみを信じ込む従来型の宗教形態が、欧米のような先進国では崩れ始めているといえる。
この現象は、アジアの先進国、日本でも始まっている。スリランカ出身のスマナサーラ長老の下へ最近多くの日本の若者が瞑想指導を求めて集まっている。彼らは従来型のただ願ったり信じたりする宗教では満足が得られず、個人の「目覚め」に重きをおく仏教に魅入られるのである。
<筆者プロフィール>
けねす・たなか
1947年、山口県生まれ。米国籍。58年、日系2世の両親と渡米。スタンフォード大卒。東京大学修士課程修了。哲学博士。98年から武蔵野大教授。専攻は仏教学・アメリカ仏教。日本語の主著『アメリカ仏教』『真宗入門』など。