闇サイト殺人事件 12日控訴審判決
中日新聞2011/4/9記事より抜粋
名古屋市千種区で2007年8月、会社員磯谷利恵さん=当時(31)=が3人の男に拉致、殺害された「闇サイト殺人事件」で、強盗殺人などの罪に問われ、1審で死刑判決を受けた無職堀慶末(よしとも)被告(35)と無期懲役を言い渡された無職川岸健治被告(43)の控訴審判決が12日、名古屋高裁で言い渡される。母親の富美子さんを(59)を支えているのは、最愛の一人娘に誓った「3人の死刑判決が出たら報告する」との約束だ。
09年3月の1審名古屋地裁判決は、インターネットのサイトで集まった匿名性の高い集団による極めて悪質な犯行と指摘。この種の事件は発覚や逮捕が難しく、結果として川岸被告の自首が事件の解明に寄与した点を重くみて、川岸被告だけ極刑を回避した。
富美子さんはその量刑判断を今も納得できない。サイトへの書き込みで人を集めたのは川岸被告。「人を集めなければこの事実は起きなかった。きっかけをつくった責任より、自首で事件の解決に寄与したことの方が重いのでしょうか」
1審判決によると、3人のうち川岸被告だけが車内で監禁中の利恵さんに2度、性的暴行を加えようとした。「娘がどれほど怖かっただろうと思うと、1審では、そのことが軽くあしらわれた気がして悔しい」
殺害された被害者が1人の事件で死刑判決が言い渡されるのは、身代金目的の殺人や、強殺などで無期懲役判決を受け、仮出所中に再び同種の犯行に及んだ場合が多い。
控訴審では、川岸被告の自首をどう評価するかが最大の焦点となる。堀被告とともに1審で死刑判決を受けた神田司死刑囚は控訴を取り下げ、判決が確定した。(以下略)
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〈来栖の独白〉
遺族の磯谷さんは「きっかけをつくった責任より、自首で事件の解決に寄与したことの方が重いのでしょうか」と、切実に問うておられる。
きっかけをつくった責任は無論、重い。が、自首で事件の解決に寄与したことも重大な意味を持つ、と私は考える。このことを磯谷さんには分かって戴きたいと願わないではいられない。
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◆闇サイト殺人事件 控訴審(08/09〜)「闇のなかから 生き返ってくる 人間の すがた 目の色」2010-08-09|
〈来栖の独白2010-08-09〉
この事件で私は、幾つかの「恐怖」「畏れ」を禁じえない。
まず、被害者の身に起こった「恐怖」である。1審で焦点とされたのは「被害死者1名の事件で、被告人に死刑は相当か」ということであった。量刑判断については裁判所に委ねるとして、私が恐怖を禁じえないのは、女性一人を3人もの男が取り囲み、脅し、遂には命を奪ったという点である。「被害者1名。加害者3名」と一口に言うが、それ故の被害者の恐怖は、はかり知れない。娘の恐怖を思いやる遺族が尋常でいられないのも、当然だと思う。「3人を極刑に」との思いは、鈍い私にも理解できる。通り一遍の「ご冥福を」などという言葉は、遺族の心に沿わないだろう。胸が波立つ。《追記:8月10日の中日新聞には母親富美子さんの言葉が載せられていた。「怖かった事件のことを忘れてほしい。そんな思い出は捨ててほしい」から、利恵さんの写真は法廷に持ち込まないのだという。その事件が再現される法廷。遺族には苛酷すぎる。》
次の「恐怖(畏れ)」は、人の死を望む危うさである。
被害者遺族の方は、歳月を経たのち大丈夫かな、と案じないではいられない。3人に極刑を望むお気持ちは理解できるつもりだけれど、怖い。自分の動きによって2つの命が失われた(控訴審で遺族の願いを裁判所が聴き入れたなら、3つの命が失われることになる)・・・。このことは、恐ろしい。もし遺族の獅子奮迅の死刑嘆願活動がなければ、3つもの命は失われなかったはずだ。名地裁裁判長は、遺族の感情と行動に動かされてガイドラインを越えた。広島女児殺害事件の遺族(父親)の「自分が(加害者の命とはいえ)殺すことになる」との吐露は、人の命を自分の手で奪う危うさ、畏れを実感として表現している。
ところで、東海テレビの番組だったか、遺族(磯谷富美子さん)がおっしゃっていた「永山基準によって、下される量刑が決まっているのなら、裁判の必要も意味も無い」。また、控訴審(2010/8/9〜)を前にした記者会見、「悪いと思うなら、堀被告は控訴を取り下げ、死刑を確定させて」。これは、どうだろうか。
裁判は、量刑を決めるため(だけ)に行われるのではない。刑事裁判は「被害者自身による報復や、被害者個人の損害回復のための制度ではなく、犯罪を抑止することと同時に犯罪を犯した人の改善更生を実現することを目的としている」。また、「被告人席に立たされた市民に対し、冤罪の危険を3度にわたってチェックするためである」。
上の同番組中、「死刑を求める磯谷さんの前に立ちはだかったのは、『被害者1名のケースでは死刑の選択は無理』という永山基準だった」とのナレーションもあったように記憶しているが、これは、どうか。磯谷さんの要求の前に立ちはだかったのは、なんぴとに対しても等しく「命の尊重」という理念ではないだろうか。
控訴審を前にした記者会見では「謝罪は要らない」とも、言われた。被告の本心か否か分からず、心に響かない謝罪など要らない、謝られても娘がかえってくるわけではないとのお気持ちでもあるだろうか。・・・だが、私は考えないではいられない。遺族の気持ちには沿えず申し訳ないが、考えないではいられない。
謝罪とは、自己を内省するところから始まる。自己を内省するところから人間に立ち返る道筋がつく。人は、人間として生まれるのではない。人間となるのだ、と私は思う。
五木寛之氏の『親鸞』を参考に考えてみたい。
貴族の生まれとはいえ、不遇に育った親鸞は叡山で修行の少年期を送るが、やがて吉水へ法然の説法を聴きに通うようになる。自己の罪深さ、断ち切れぬ煩悩に悩む親鸞が必死に道を求める行動だった。その頃の事を、法難が迫ったある日、『選択本願念仏集』を親鸞に託して、法然は言う。
“「わたしは、そなたを信じている。だれがなんといおうと、そなたを信じる。もし、彼らのいうとおりそなたが比叡山の目付け役だったとしても、わたしは後悔などしない。 かつて百日間、一日も休まずにわたしの話をききつづけたそなたの目の色を、わたしははっきりとおぼえているのだよ。あれは、闇のなかから生き返ってくる人間のすがただった。わたしはそなたをみつめながら、そなた一人にむけて話しをしているような気持ちでいた。だからわたしはそなたにこの書をあずけるのだ。わたしにもしものことがあったときは、世間に広くこの選択集をひろめるがよい。よいか、たのむぞ」
綽空(親鸞)は全身に法然上人の声がしみわたるのを感じ、床に頭をおしつけた。涙があとからあとから、とめどなくながれた。”
私は上記法然の「 闇のなかから 生き返ってくる 人間の すがた 」との言葉に泣いた。私も、この「闇」と「すがた」、「目の色」を見たことがあるからだ。「人間」を見た。
この「すがた」は、本人だけの努力によって得られるものではない。祈ることが、念仏することが、人間の側から一方的に発せられるものではなく、周囲(神仏と人)からの呼びかけであるように、生き返るすがたも、周囲からの恵みよって、成る。人は、一人で更生などできぬ。人は、人の間に生まれ、人の間で生きて、更生するものだ。無明のなかから生まれた者が、周囲の呼びかけによって、人となる。
また、生殺与奪というが、人間には誰一人、命を造った者などいない。髪の毛一本すら造れない。与えられたのである。不完全な被造物にすぎない者が、完全なこと(死刑)をし、希望を失わせては(闇に戻しては)ならない、と私は思う。「希望」を残しておく、それが危うい存在である人間の、せめてもの智慧ではないだろうか。
控訴審では、川岸健治被告の自首と「被害者数1名」が争点となる。冤罪を防ぐために自首は評価したい、と私は思う。川岸被告には軽度の知的障害があった、とも弁護人は言う。中日新聞に次のような論説があった。
「闇サイト殺人事件」存在感増す遺族 自首によって残りの2人が早期に逮捕されたことは確かだ
中日新聞夕刊【大波小波】2009/03/25
闇サイト殺人事件の3人の被告への判決を伝えるテレビのニュースやワイドショーの多くは、判決への客観的な分析よりも、無念を訴える被害者の母親のインタビューを前面に出しながら、1人が死刑ではなく無期になったことへの異を唱えることに終始した。
確かに犯行はあまりにもむごたらしい。でもむごたらしいからこそ冷静に考えねばならない。反省のない自首など評価すべきではないとの論調が多いが、自首によって残りの2人が早期に逮捕されたことは確かだ。自首しても減軽が見込めないとの前例を作れば、今後は同種の事件の解決が困難になることも予想される。 殺人事件のほとんどは、その過程を克明に描写すれば、この事件と同様にむごたらしい。闇サイトなどで世間から注目された事件だったからこそ、今回はその残虐性が浮き彫りになった。同時に3人の男たちの護送中の映像が、あまりにふてぶてしくて悪人面であったことで、世間の憎悪がヒートしたことも確かだろう。
厳罰化は加速している。その自覚があるならそれもよい。でもその自覚がないままに、「悪いやつはみな死刑だ」式の世相が高揚することに対して、(特に感情に訴える映像メディアは)もう少し慎重であるべきだ。
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特集「死刑100年と裁判員制度」
安田 裁判実務にずっと関わってきた者から申しますと、事件の現場というのは悲惨なわけですね。もうおぞましいほどの、人間の死というものはものすごいものなわけです。血が飛び散り、内臓は飛び出し、あるいは死体遺棄のケースですと、人間が人間の形をとどめず、泥になってしまっている。ウジ虫が這っているような現場の写真を見せられるわけです。もう一つ、加害者側も、いかんともしがたい人が多いわけです。そうでないと犯罪なんて起こしませんから。ちゃんとサポートしてくれる人がいて、あるいはいい人と出会って更生できる人はいいんですけれども、そうではないからこういう事件になってしまう。そういう人が目の前にいる。
そして被害者です。本当に被害者は気の毒だと思います。たとえばこの前の名古屋の事件でも、親子二人、お母さんと娘さんで暮らしてきて、それで娘さんが殺されるわけです。落ち度があるわけでもない、何をやったわけでもない。犯罪というのは本当に理不尽の凝縮の場所なんです。
それを見たときに、だれであろうと、これは死刑しかないということになりかねないわけです。というのは、私たち法曹の同僚を見ていても、そういう現場を、写真を見てしまうと、死刑しかないな、死刑が容認されるという発想にどうしてもなってしまう。裁判官であっても全く同じです。これが、裁判員であるからといって、変わることはないと思うんです。
池田 でも、そういうのと向き合っていかない限りだめなわけですよね。つまり裁判員制度を突破できないというのがあって。
安田 そうです。そこからすると弁護士の力量の弱さが目立ちます。被害者の訴えを超えて、裁判員を説得するだけの力量がないわけです。もちろん、検察官も裁判官も同じですけれど、被害者が何を言おうと自分の確信に基づいて求刑し、また判決を出すだけの力量がないわけです。被害者を制するとか説得するとかそういうことが、堂々とできる、それくらいの自信と能力と権威を持っている人たちがいないわけです。法曹全体の力量が、あまりにも弱すぎますね。
今、日本で死刑判決を受けている人たちが、あるいは死刑が確定している人たちがどれだけまともな裁判、まともな弁護を受ける機会があったかというと、ほとんどないに等しいと思いますよね。これはちょっと僕自身の思いこみかも知れないけれども。岩井さんはどうです?
岩井 状況としては、さっきも言いましたが、今、刑事裁判では法廷の中に、検察官だけではなくて、目の前に被害者の母親とその母親の代理人の弁護士がいる、それは圧倒的な一つの大きな存在としてあります。死刑事件のときに、どのような言葉で、どのような弁護をしていくのか、弁護人としては難しい問題を感じています。
安田 弁護人自体が被害者に気後れしてしまいますね。ましてや被告人が言えることといったら何だろうか。新しく行われているのは、裁判員裁判ではなく、裁判員プラス被害者参加裁判です。これを抜きにして、裁判員裁判だけを考えるのは、全くの間違いだと思いますね。
岩井 犯罪に対する適切な刑罰という議論以上に、感情に対してどうするかという、感情の問題があります。死というのは意味づけされるものです。美化され、非常に倫理的に語られる。それが法廷の中では、死刑という形で、死して責任を取るのか、生きて責任を取るのかという議論になってきたときに、犯罪に対する適切な刑罰としての議論とはかみあわなくなってきやすい。結局、死して責任を取るのが真の責任の取り方であり美徳として、日本の国家を支える責任原理として残っていく、そういう危険は確かに感じるんです。
高木 すでに2例あった裁判員裁判でも少し見えてきたかなというのはあると思うのですが、刑事裁判の大半は自白事件であって情状弁護でしかない。多くの死刑事件もそうですよね。そうなってみるとあとは量刑でしか争えませんから、量刑で検察官求刑よりも重い求刑を被害者、被害者代理人がするという状況になっていますから、これは大きく死刑の方向に引っ張られる可能性が高いわけで、裁判員も当然そっちのほうに流されざるをえない。これを弁護人が引っ張り戻すことができるのかといえば、安田さんが先ほどおっしゃられたように力として弱いわけです。当然、その裁判員自体は死に直面してそこでいろいろと考えざるをえないわけですけれども、その力の働き方についても、我々としては、こういう構造になっているんですよと見えやすい形で示していく必要があると思いますね。
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「願い通りの判決を」=被害女性の母−闇サイト殺人、9日から控訴審・名古屋高裁
(前段略)焦点は一審に続き、被害者が1人の事件で死刑が適用されるかどうか。磯谷さんの母富美子さん(58)は「今度こそ全員に死刑判決を」と悲痛な思いで訴える。
24日で事件発生から3年。09年3月の一審判決からも1年半近くが経過したが、富美子さんにとって、利恵さんが殺害された時から時間は止まったままだ。「いつまでも悲しみに暮れているのではなく、早く前に歩きだしたい。願い通りの判決が一つの区切りになる」と語る。
被告らに対しては「謝罪は要らない」ときっぱりと語った。「悪いと思うなら、堀被告は控訴を取り下げ、死刑を確定させて」。闇サイトに事件のきっかけとなる一文を書き込んだ川岸被告には「一番責任が重い。自首で減軽は解せない」と憤る。
利恵さんが拉致、殺害された現場を、一審判決後に訪れようと決めていたが、今もつらくて実現できていない。「ほんの数分、数十秒だが、娘が生きていると思う時がある。でも、その後現実が覆いかぶさってきて、本当につらい」。今でも涙の出ない日はない。
利恵さんは富美子さんに家を買うため、内緒で貯金をしていた。拉致され、キャッシュカードの暗証番号を聞かれた際も虚偽の番号を教え、大切な貯金を守り通した。「娘の望み通りに使った。それにしか使えなかった」。利恵さんの貯金で買った新居で、富美子さんは毎日、仏壇に手を合わせ、利恵さんに話し掛けている。(時事通信2010/08/07-15:04)
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〔楽なログ〕 闇サイト殺人事件の控訴審2010年08月08日
いわゆる闇サイトで知り合った3人組の強盗殺人事件で控訴審が始まる。
遺族が三人とも死刑にするよう希望し、その署名運動までしていた。これをマスコミはあいかわらず悲劇の美談として安易に取り上げていたが、一審では法に則り二人が死刑、一人は自首したことにより無期懲役であった。
遺族からすると悔しいだろうが、これは仕方ないことた。自首した犯人は反省して罪を悔いたのではなく、自首すれば刑が軽くなるからと、自分だけ助かろうとして仲間を売ったのであり、むしろ憎たらしい。やってしまってから恐くなったというのだから、救いようのない大バカである。
でも、減刑を餌に自首をうながすことで、事件が早く解決する。捜査の費用や人員を他の事件解決や防犯に回せる。また本件では、あとの二人はまたやりそうになっていて、それが自首があったおかげて未然に防げた。でなければ、もっと被害者が出たかもしれない。
つまり、仲間割れで自首を誘発させるのを狙った法律が効果有りと実証されたのだ。犯人を許すわけではないけど、新たな犯罪と悲劇を防ぐためだ。
これを、「自首したのに死刑」では、もう誰も自首しなくなる。どうせ死刑だからと逃亡したり犯行を重ねる奴もでるだろう。自首しても死刑、逃げて捕まっても死刑、ということなら、逃げ切る可能性に賭ける犯罪者が増える。そうなっていいわけがない。
それをわかっていても、被害者の遺族は死刑にしろと言っていた。自分の憎しみだけに凝り固まって、社会全体の安全とかが見えていない。他に同じような被害者や遺族がでることなど心配してない。
もちろん、遺族が犯人を憎み極刑を望むのも仕方ないのだから、それは同情すべきだ。罪のない自分の家族を殺されてつらい遺族に、他にも被害者や遺族が出る可能性を考えろ、なんて酷だ。
ただ、それに判決や法制度を合わせてはいけないのだ。その感情は許すしかないし、許さないといけないけれど、判決に反映させてはいけない。
このような問題があるから、刑事裁判の被害者参加制度は危ないのだし、判決に「遺族の処罰感情が強い」という文言がよくあるが、批判されてきた。
もう一つ警戒しなければならないのは、 本当に遺族が感情的になって死刑を望んでいるのかどうかだ。実は検察にそそのかされて、「刑を重く」と言わされてることが、けっこうある。
あの光市の本村氏だって、その問題を犯罪被害者の集会で訴えていたが、マスコミは検察の圧力が恐いのか、ほとんど報道しない。
「少年でも死刑にしろ」と遺族の立場から言って協力しないと、お前も松本サリン事件の河野氏やロス疑惑の三浦氏みたいに、家族殺し犯人に仕立ててやると脅されたうえテレビに出演させられており、彼はその脅されたときの恐怖を語っていた。彼は死刑に反対してはいないが、もともとはあのように感情的に話す人ではなく、とてもおとなしいと、会った人たちは共通して証言する。
おそらく、犯人がすぐに逮捕されなければ、本村氏が犯人にされ、あとから真犯人が判明しても隠蔽され、本村氏に安田弁護士が付き、これを「本村なんて妻子殺しの極悪人を弁護する奴は懲戒請求」と橋下弁護士がテレビで煽って、大勢の人たちが乗せられたことだろう。
とにかく、検察は政治家を失脚させたり総理大臣の首をすげ替えるほどの権力があるから、刑事裁判では被告に絶大なハンディをつけないといけない。どんな同情や弁護の余地がないと思われる凶悪犯とされた人でも、だ。
それがわからない人は、社会の仕組みや制度とか構造について、無知すぎる人である。
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◆闇サイト殺人事件判決の要旨 記事(闇サイト殺人判決/上・中・下)2009-03-19