二審は2被告に無期懲役=被害者1人、死刑適用焦点−闇サイト殺人・名古屋高裁
名古屋市千種区で2007年8月、会社員磯谷利恵さん=当時(31)=が拉致、殺害された闇サイト殺人事件で、強盗殺人などの罪に問われ、一審で死刑とされた堀慶末被告(35)と無期懲役とされた川岸健治被告(44)の控訴審判決が12日、名古屋高裁であった。下山保男裁判長は堀被告の一審判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。川岸被告については、一審判決を支持し、検察、弁護側双方の控訴を棄却した。
一審名古屋地裁は神田司死刑囚(40)=控訴取り下げで確定=と堀被告を求刑通り死刑としたが、川岸被告は自首が事件解決につながったことを考慮し、無期懲役とした。控訴審でも、川岸被告の自首の扱いと被害者が1人の事件で死刑が選択されるかが焦点だった。(時事通信2011/04/12-15:26)
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〈来栖の独白〉
正義も情も希望もある名判決、よかった。先月の木曽川長良川連続リンチ殺人事件で最高裁が、少年事件にも関わらず全員に死刑を選択。メディアも人間の更生可能性を完全否定して被告人を実名報道するなど、厳罰・断罪傾向に歯止めがかからない状態になっていたので、本日の判決も、寛刑は予想の外であった。・・・司法に、正義も正気も命脈保たれている、と確認できた。
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刑事司法における「加害者」と被害者 法学セミナー548号66-69頁(2000年)
刑事司法は誰のためにあるのか
刑事司法は誰のためにあるのだろうか。近代的な司法制度の下では、民事的な紛争処理と刑事制裁による社会統制とが明確に区別される。刑事司法は、被害者じしんによる報復や、被害者個人の損害回復のための制度ではなく、犯罪を抑止することと同時に犯罪を犯した人の改善更生を実現することを目的としている。また、刑事裁判や少年審判は、犯罪や非行の存否を認定し、必要な処分を決定するための手続きであるが、そこでは、無実の人に誤って刑罰や保護処分を科さないための配慮を行うことが、固有の目的として強く意識されている。冒頭の問いに答えるとすれば、近代化された刑事司法は、1)犯罪から守られるべき社会と2)罪を犯してしまった人(加害者)、そして3)罪を犯したとされている人(被疑者・被告人)のためにあると言えよう。
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◆「闇サイト殺人事件」存在感増す遺族 自首によって残りの2人が早期に逮捕されたことは確かだ
中日新聞夕刊【大波小波】2009/03/25
闇サイト殺人事件の3人の被告への判決を伝えるテレビのニュースやワイドショーの多くは、判決への客観的な分析よりも、無念を訴える被害者の母親のインタビューを前面に出しながら、1人が死刑ではなく無期になったことへの異を唱えることに終始した。
確かに犯行はあまりにもむごたらしい。でもむごたらしいからこそ冷静に考えねばならない。反省のない自首など評価すべきではないとの論調が多いが、自首によって残りの2人が早期に逮捕されたことは確かだ。自首しても減軽が見込めないとの前例を作れば、今後は同種の事件の解決が困難になることも予想される。 殺人事件のほとんどは、その過程を克明に描写すれば、この事件と同様にむごたらしい。闇サイトなどで世間から注目された事件だったからこそ、今回はその残虐性が浮き彫りになった。同時に3人の男たちの護送中の映像が、あまりにふてぶてしくて悪人面であったことで、世間の憎悪がヒートしたことも確かだろう。
厳罰化は加速している。その自覚があるならそれもよい。でもその自覚がないままに、「悪いやつはみな死刑だ」式の世相が高揚することに対して、(特に感情に訴える映像メディアは)もう少し慎重であるべきだ。
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特集「死刑100年と裁判員制度」
安田 裁判実務にずっと関わってきた者から申しますと、事件の現場というのは悲惨なわけですね。もうおぞましいほどの、人間の死というものはものすごいものなわけです。血が飛び散り、内臓は飛び出し、あるいは死体遺棄のケースですと、人間が人間の形をとどめず、泥になってしまっている。ウジ虫が這っているような現場の写真を見せられるわけです。もう一つ、加害者側も、いかんともしがたい人が多いわけです。そうでないと犯罪なんて起こしませんから。ちゃんとサポートしてくれる人がいて、あるいはいい人と出会って更生できる人はいいんですけれども、そうではないからこういう事件になってしまう。そういう人が目の前にいる。
そして被害者です。本当に被害者は気の毒だと思います。たとえばこの前の名古屋の事件でも、親子二人、お母さんと娘さんで暮らしてきて、それで娘さんが殺されるわけです。落ち度があるわけでもない、何をやったわけでもない。犯罪というのは本当に理不尽の凝縮の場所なんです。
それを見たときに、だれであろうと、これは死刑しかないということになりかねないわけです。というのは、私たち法曹の同僚を見ていても、そういう現場を、写真を見てしまうと、死刑しかないな、死刑が容認されるという発想にどうしてもなってしまう。裁判官であっても全く同じです。これが、裁判員であるからといって、変わることはないと思うんです。
池田 でも、そういうのと向き合っていかない限りだめなわけですよね。つまり裁判員制度を突破できないというのがあって。
安田 そうです。そこからすると弁護士の力量の弱さが目立ちます。被害者の訴えを超えて、裁判員を説得するだけの力量がないわけです。もちろん、検察官も裁判官も同じですけれど、被害者が何を言おうと自分の確信に基づいて求刑し、また判決を出すだけの力量がないわけです。被害者を制するとか説得するとかそういうことが、堂々とできる、それくらいの自信と能力と権威を持っている人たちがいないわけです。法曹全体の力量が、あまりにも弱すぎますね。
今、日本で死刑判決を受けている人たちが、あるいは死刑が確定している人たちがどれだけまともな裁判、まともな弁護を受ける機会があったかというと、ほとんどないに等しいと思いますよね。これはちょっと僕自身の思いこみかも知れないけれども。岩井さんはどうです?
岩井 状況としては、さっきも言いましたが、今、刑事裁判では法廷の中に、検察官だけではなくて、目の前に被害者の母親とその母親の代理人の弁護士がいる、それは圧倒的な一つの大きな存在としてあります。死刑事件のときに、どのような言葉で、どのような弁護をしていくのか、弁護人としては難しい問題を感じています。
安田 弁護人自体が被害者に気後れしてしまいますね。ましてや被告人が言えることといったら何だろうか。新しく行われているのは、裁判員裁判ではなく、裁判員プラス被害者参加裁判です。これを抜きにして、裁判員裁判だけを考えるのは、全くの間違いだと思いますね。
岩井 犯罪に対する適切な刑罰という議論以上に、感情に対してどうするかという、感情の問題があります。死というのは意味づけされるものです。美化され、非常に倫理的に語られる。それが法廷の中では、死刑という形で、死して責任を取るのか、生きて責任を取るのかという議論になってきたときに、犯罪に対する適切な刑罰としての議論とはかみあわなくなってきやすい。結局、死して責任を取るのが真の責任の取り方であり美徳として、日本の国家を支える責任原理として残っていく、そういう危険は確かに感じるんです。
高木 すでに2例あった裁判員裁判でも少し見えてきたかなというのはあると思うのですが、刑事裁判の大半は自白事件であって情状弁護でしかない。多くの死刑事件もそうですよね。そうなってみるとあとは量刑でしか争えませんから、量刑で検察官求刑よりも重い求刑を被害者、被害者代理人がするという状況になっていますから、これは大きく死刑の方向に引っ張られる可能性が高いわけで、裁判員も当然そっちのほうに流されざるをえない。これを弁護人が引っ張り戻すことができるのかといえば、安田さんが先ほどおっしゃられたように力として弱いわけです。当然、その裁判員自体は死に直面してそこでいろいろと考えざるをえないわけですけれども、その力の働き方についても、我々としては、こういう構造になっているんですよと見えやすい形で示していく必要があると思いますね。
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「公益」色あせる検察 光市母子殺害事件と被害者の存在感の高まり 菊池歩(ジャーナリスト)
『光市事件裁判を考える』現代人文社
「一緒に戦う」
光市母子殺害事件で山口地裁が無期懲役判決を出した2000年3月22日、報道によれば、担当検事は遺族の本村洋さんに言ったという。「私たちは最後まで戦うから、一緒に戦ってほしい」。検察官にとって死刑求刑は軽いことではなく、死刑求刑が1審で退けられた場合に控訴しないという選択は実務上まずない。控訴しなければ「簡単にあきらめるようなつもりで、人命を奪う刑罰を求めたのか」という批判を受けることは火を見るより明らかだ。
だからこの段階では本村さんの意向がどうであれ、検察官が控訴することはほぼ決まっていたと言っていい。だが検察官が言った「一緒に戦う」とはどういうことか。この検察官の本村さんに対する気持ちや思いはもちろん強いものがあったのだろうが、本来、検察官は「公益の代表者」(検察庁法4条)と規定され、その意味では被害者の立場と完全に一致するわけではない。事実、多くの刑事事件で被害者側は裁判所の判決だけでなく、検察官による刑事処分や求刑にも不満を持っている。その理由でもあるが、一般的に検察官は検察官なりに被告人の事情を汲んで求刑するし、「弁護人があまりに駄目なのでこっちの被告人質問で救済するしかなかったケースもある」と話す検察官経験者もいる。
だが光市事件では、検察官があえて本村さんに「一緒に戦ってほしい」と話したという。「検察官は被害者遺族のために刑事司法に参加している」という意識を強くうかがわせるエピソードだ。これは光市事件だけではない。1995年にオウム真理教事件で検察がフル稼働し、担当検事や検察事務官が休みもなく朝から深夜未明まで働く悲惨な勤務実態になっていたときに「被害者の調書を読むことで自分を奮い起こした」という検事たちの話が伝えられている。「被害者とともに泣く検察」という言葉もよく聞く。(中略)これまでの検察官の公益意識の規範から少しずつずれていることもまた指摘せざるを得ない。昨今の死刑増加、厳罰化傾向はこうした「被害者のための検察」という意識がもたらしたものとみることができる。
遺族に説明拒否、批判集中
検察庁が近年、被害者、遺族尊重を強調する切っ掛けになったのは1997年の「片山隼君ダンプ事故」だろう。東京都世田谷区で同年11月にダンプにはねられ、亡くなった片山隼君の両親は、事故現場から走り去った約40分後にひき逃げ容疑で逮捕された運転手の不起訴処分を全く知らされなかった。事件処理がどうなっているのか不安になり、翌年1月東京地検を訪れてようやく不起訴だったと知る。理由の説明を求めたが対応した職員は「答える必要はない」と答えた。
この経緯をマスメディアが報じはじめ、検察の対応が不条理、傲慢だというキャンペーンに結びついていく。批判を受け、被害者に加害者の刑事処分を通知したり説明したりという改善策を導入することになった。
同時に、隼君の事件そのものも不起訴処分に問題がなかったか調べるため、高検に対する両親の申立を受ける形で再捜査。運転手が現場からそのまま去ったことがひき逃げかどうかは「「はねたと気づかなかった」という運転手の主張を覆す証拠はないとし、嫌疑不十分で不起訴としたが、事故を起こした不注意から業務上過失致死罪で起訴した。
このときの検察に対する世論の非難は当局にとって予想を超えるものだった。もともと検察組織は批判に慣れていない。(中略)
岡村弁護士の妻殺害事件と「あすの会」
ほぼ同時期、1997年10月に発生したのが、山一證券の代理人弁護士だった岡村勲さんの妻が自宅で刺殺された事件だ。逮捕されたのは証券取引で大損をした元顧客で、損失補填を拒む同社の対応に憤っていたことが動機だという。岡村弁護士は殺人事件被害者遺族となり、その苦しみを知ったことから犯罪被害者運動をスタートさせ、代表を務める「全国民犯罪被害者の会」(「あすの会」)は被害者の権利運動で最大の潮流になる。
運動は犯罪被害者への経済的な支援に加えて刑事司法に被害者の意見を反映させるという視点を強く打ち出した。「刑事司法から被害者が排除されている」という主張だ。隼君事件に見られるように、検察が被害者との対応面で冷淡な姿勢を取っていたことと相俟って、この主張は世論の理解をかなりの程度得る一方で、被害者の気の毒さに注目が行くあまり、刑事司法とは、あるいは刑罰とは何かという議論を深める過程を経ることはなかった。被害者が個別の事件で厳罰を強く求める動きが注目されるようになり、それは検察に対しさらなるプレッシャーになった。
死刑上告五事件
片山隼君や岡村弁護士の妻の事件が起きた1997年から翌1998年にかけては、さらに別の動きが検察で起きていた。高裁段階で無期懲役となった殺人事件5件について、検察官が死刑を求める異例の上告をしたのである。
光市事件のように検察官の死刑求刑が容れられず無期懲役となったことを不服として、事実上量刑を争うために最高裁に検察官が上告することはまずない。上告理由は、本来の最高裁役割である憲法、法律の問題があったり判例違反があったりするケースが原則で、例外的に量刑などについて「著しい不正義」となる場合があるだけだ。もっとも「著しい不正義」の基準は明確ではなく、検察は死刑を求める上告の理由を「判例違反」にも求めるが、こうした事情から検察官が死刑を求めて上告することは特別な意味を持つケースでしかない。
1997年から1998年の死刑上告5件の場合は「寛刑傾向」に対するアピールだった。当時は今と違い死刑判決の数が減る方向にあり、検察幹部の間では「刑が甘くなる傾向が強まっている」という危機感が大きくなっていた。とりわけ、複数の被害者が出た事件、殺人事件を犯して服役後、仮出所中にまたも同種の殺人をした事件などでも無期懲役になるケースに検察は量刑基準の変化を感じ、5事件を選んで異例の上告に踏み切った。
最高裁の判断は、4件が高裁の無期懲役支持で、無期懲役が破棄されたのは1件だけ(その後死刑確定)にとどまった。無期懲役破棄の1件は1審死刑、2審無期懲役と判断が揺れたケースで、無期懲役支持の4件はすべて地裁・高裁とも死刑を回避した事件。事件の内容についての判断に加え「地裁・高裁とも無期という判断をしたものを最高裁が死刑にすることには非常な抵抗がある」という声が当時、裁判所内部にもあったという。
5件の結果が出そろった1999年末、最高検の次長検事は「死刑に対する国民の意識をどう認識するかについて、検察と裁判所の間に多少開きがあったようだが、最高裁の判断が示された以上、今後はこれらの判断がこの種事件の検察運営に反映される」とのコメントを出している。光市事件で山口地裁の判決が出るのはこの3ヵ月後だ。
とまどいの声も
この10年間、刑事司法での被害者の存在感は高まり、検察官の職域に被害者が同席するようになってきた。2000年に成立した犯罪被害者2法で被害者の意見陳述権が認められた。2004年には刑法、刑訴法が改正されて重大犯罪の法定刑が重くなり、公訴時効が長くなった。同時に制定された犯罪被害者基本法を受けて司法への「被害者参加」が計画され、2007年の法改正によって被害者が検察官の横に座って被告人に質問したり証人尋問したりすることができるようになった。
ところが、こうした被害者参加については検察を含む司法当局内からも歓迎の声が少ない。「本来、そういうものではない。世論の力に押された」「被害者参加を強く求める被害者の人たちの声が一時期非常に高まったのが大きい。本当はどうかと思う。導入の流れが決まった後になって、被害者の人たちも含めて慎重論が急に出てきたのだが、遅すぎた」という声が漏れてくるのである。
被害者運動が、厳罰に偏りすぎているという声が検察幹部から聞こえてくることすらある。「交通事故で、ドライバーの過失がほとんど認められないケースでも、被害者が亡くなれば遺族は嘆き悲しむし、ドライバーに怒るだろう。だが、求めに応じて起訴したり実刑にしたりすることが果たして正義なのだろうか。被害者の方たちだって、自分に落ち度がごく少ない交通事故を起こしてしまう可能性は常にある。飛び出し事故などだ。その時、厳罰を受けてもいいのだろうか」。
その一方で、凶悪事件とされるようなケースで死刑が増えること自体には、あまり重大な抵抗があるようには見えない。被害者の声に検察官の仕事が左右されることには不安や違和感を感じているものの「死刑の選択は結局、国民の意識とみるほかない」ということのようだ。(きくち・あゆむ)
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◆刑事裁判は誰のためにあるのか=裁判員の為ではなく被告人対し冤罪を3度に亘ってチェックする為だ2008-11-17
【中日新聞を読んで】後藤昌弘(弁護士)
刑事裁判は誰のため
12日付の朝刊で、裁判員制度に関する司法研修所の報告書について報じられていた。控訴審については、裁判員が判断した1審判決を尊重し、破棄するのは例外的なケースに限るとある。
裁判員裁判は1審のみであり、控訴審では従来通り職業裁判官が審理する。この控訴審のあり方については従来、議論があった。控訴審で職業裁判官のみにより1審判決が安易に覆されるとなれば、市民の声は反映されにくくなる。市民の声を裁判に反映させることを目指す裁判員制度の趣旨からすれば、1審の裁判員による判断は尊重されなければならない、という意見があった。今回の報告書はこの意見を採りいれたものである。
ここで考える必要があるのは「刑事裁判は誰のためにあるのか」である。裁判員になる市民のためではない。被告人席に立たされた市民に対し、冤罪の危険を3度にわたってチェックするためである。「疑わしきは罰せず」という言葉も、冤罪を防ぐという究極の目的があるからである。だとすれば、有罪・無罪にかかわらず裁判員の意見を尊重する、という今回の方向性が正しいものとは思えない。市民が無罪としたものを覆すことは許されないとしても、事実認定や量刑について問題がある場合にまで「市民の声」ということで認めてしまうのであれば、控訴審は無きに等しいものになる。しかも、被告人には裁判員裁判を拒否する権利はないのである。
今回の運用について、検察官控訴に対してのみ適用するのなら理解できる(そうした立法例もあると聞く)。しかし結論にかかわらず一律運用されるとすれば、裁判員裁判制度は刑事被告人の権利などを定めた憲法に違反すると思う。今更やめられないとの声はあろうが、後で後悔するのは被告人席に立つ国民である。改めることを躊躇うべきではない。2008/11/16中日新聞朝刊
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◆闇サイト殺人事件2011/4/12控訴審判決/ 闇のなかから 生き返ってくる 人間の すがた2011-04-11 | 死刑/重刑/生命犯 問題
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闇サイト殺人事件 2審は2被告に無期懲役/刑事司法は犯罪抑止とともに罪を犯した人の更生を目的としている
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